平田オリザ氏講演会・討論会

例年の講演会に劇作家の平田オリザ氏をお招きし、201841日(日)国士舘大学梅ヶ丘校舎B304教室でご講演(新しいコミュニケーションの形)をお願いしました。この講演会の要旨を2回に分けて以下に掲載いたします。なお、講演会のあと参加者は6グループの分かれテーマ(対話とケア)に関する討論会を行いました。

 

「わかりあえないことからー新しいコミュニケーションの形」

 私の職場は、映画やオペラを作っています。一方、小中学校、大学でコミュニケーション教育を行っています。私が招聘されている大阪大学は京大や神戸大に比べて非常に硬いイメージの大学です。そこへ十数年前にコミュニケーションデザインセンターができました。当時、文部科学省から研究費が増大する中で科学者の説明責任能力をつけるために、大学にこの趣旨の施設を作りました。大阪大学の特徴は、劇作家、ダンスのプロデューサー、あるいはデザイナーも雇用して科学者や医者の卵たちに演劇やダンスやデザインを経験してもらってコミュニケーション能力やデザイン力をつけようとする狙いでした。当時の鷲田清一総長の意向として少なくとも博士課程に進む人間にはこれらの授業を必修にしていこうとし、プログラム作りをしました。したがって数年もすると演劇をやらないと医者になれないという素晴らしい時代が来るのですが、あまり演技のうまい医者も信用できませんので、そこそこにしておいた方がよいと思います。いま世の中では、コミュニケーション能力がヒステリックなほどに言われています。今日のお話は、そこで言われているコミュニケーション能力とはどういうものなのかをお話したいと思います。

 

電車の中で、二人の知り合いがいて、そこにもう一人が入ってきて、「旅行ですか」と声をかける。そういうシナリオを使います。これは簡単そうで、意外と日本の高校生や大学生には、むずかしいんですね。AさんとBさんがいてCさんがここに入ってきて、「旅行ですか」と声をかける。高校生は妙に馴れ馴れしくなって「旅行ですか」と軽いノリで言ったり、逆にすごく一生懸命になって「旅行ですか」と力んで低く重たい調子で聞いたりするんです。

 

ずっと以前からこういう仕事をしていますが、最初のうちなぜうまくいかないのかよく分かりませんでした。高校生にどうしてうまくいかないのかと聞くと「いや、自分たちは初めて会った人に話したことないから」。誰でも最初は初対面だと思いますが、高校生は他人との接触は少ないのです。そのうちにカルチャーセンターなどでも教えるようになると、社会人の中でも苦手な方が多い。中高年の男性では、席の決まった宴会ならいいけれど、カクテルパーティーは苦手という人はいます。まず、名刺を出して「なんとか商社の○○です」と自己紹介して、あとは野球の話くらいして、今年の巨人は……、話がなくなると皆だんだん壁の方へ下がっていく。みな苦手なんだなと分かってきました。それ以来、参加者に聞くようにしています、今日も皆さんにおうかがいします。海外へ行く飛行機の中などをイメージしてみてください。お隣りに知らない人が座っている、その時に自分から話しかけるという人は手を挙げてみてください。今日は大体二割くらい。さすが積極的な集まりですね。大体、全国平均は一割です。大阪だけちょっと上がる。じゃあ、自分から話しかけないという方はどのくらいいらっしゃいますか。こっちのほうが多いですね。半分以上のかたがそうですね。じゃあ、場合によるというかたは?。「共通の話題がありそうな感じの方」「なんとなく話せそうな感じの方」。話しかける時のAさんの体調もありますね。落ち込んでいるときには話しかけないでしょう。やはり、相手によるということですね。話しかけると手を挙げたかたでも、相手が怖そうな人ならしません。刺青が見えていたりすると話しかけない。

 

一方で、話しかけないというほうへ多くの方が手を挙げました。Cさんが赤ん坊を抱いていて、じゃれついてきたりすると、何か言います。かわいいですねとか、かわいくなくても何か言わないとこっちが怖い人と思われるかもしれませんから。相手によるわけです。全く同じワークショップをオーストラリアの大学で、どんな場合に話しかけますかと学生たちに聞きました。すると「人種や民族による」という答えが返ってきました。ああ、やっぱりワークショップはいろんなところでやってみるものだなと思いました。ただ、主体はAさんのほうなのです。Aさんがイギリスの上流階級の教育を受けた男性だったらば話しかけない、イギリスの上流階級では人から紹介されない限り話しかけてはいけないというマナーがある。ご経験あるかたがいらっしゃると思いますが、アメリカやオーストラリアでは話しかけてくるんです。アメリカでホテルに泊まってエレベーターに他人と乗り合わせて無言ということはないですね。日本人はあまり話しかけない。じゃあ、エレベーターで話しかけるアメリカ人はたいへんコミュニケーション能力が高くて、話しかけない日本人はコミュニケーション能力のない駄目な民族なのか。そういう話でもないと思います。これは文化の違いです。アメリカという多民族国家は、いろんな人が狭い空間に閉じ込められると早く自分が相手に対して、敵意を持っていないということを声や形にしてはっきりと示さないとストレス、緊張感が高まってしまう社会なのですね。アメリカでは話しかけてくる。でも同じ英語を使うイギリスでは話しかけたら失礼になる。それらを全部覚えておくのではなく。あらかじめ謙虚になって新しい文化、異文化に対して、謙虚になって取り組むということを学ぶことのほうが、グローバルコミュニケーションスキルというものに近づけるということではないかと思います

 

日本語はちょっと話しかけにくい言語です。日本語、韓国語には敬語がある。相手との関係が分からないとどんなふうに話しかけていいか決まらない。特に韓国語は年齢により敬語が厳しいです。一つ年上でも敬語で話しかけねばならない。韓国語は年齢で全部決まります。私たち日本人は同世代の人と初対面で会うのに、韓国では困る。年齢を間違うと失礼なことになる。しかし言語はうまくしたもので韓国語の会話では相当初めの段階で年齢を聞きます。挨拶の次に何年生まれですかと聞く。女性には聞きにくいですね。話しかける行為一つとってもお国柄とか文化の違い国民性とか民族性とか現れてきます。

 

たとえば、アイルランドという国では、気さくな人で、パブでビールを飲んでるといきなり話しかけてくる。「旅行ですか」といセリフ、アイルランド人だったらみんなに話しかけるんです。フィリピンから来た留学生に聞いたらこのシチュエーションでは話しかけなかったら失礼になる、20パーセントは話しかける。イタリアからの留学生に聞いたら、相手は女性だったら、100パーセント話しかける、話しかけなかったら失礼になる。日本人は一割しか話しかけない。

 

さてAさんがイギリスの上流階級の教育を受け男性だとすると今度は話しかけてはいけないはずなんです。マナーとして。でも台本には、「旅行ですか」と書いてある。ということは、作家は何か別のメッセージをそこに込めていることがある。どんなメッセージが考えられますか。 たとえばCさんが美しかった、Aさんがスパイ、Aさんが自分の身分が嫌で放浪の旅に出てきた、庶民をアピールしたい、いろんな答えが出てきた。

 

さて、話し言葉の個性というもの、先ほど話した、話しかけるか、話しかけないか、一人一人の個性です。それから、言葉から受けるイメージも人それぞれ、さまざまです。こういうものを言語学の世界では、コンテクストといいます。コンテクストは文脈という意味ですが、ここではもう少し広い意味でその人がどんなつもりでその言葉を使っているのかを考えます。俳優には俳優のコンテクストがあります。劇作家には劇作家のコンテクストがある。これが重なればそんなに苦労はしないのですが、そうかんたんではない、別々の人間だからです。今話題になっている「旅行ですか」は簡単なセリフですね。ところが高校生にはうまく言えない、うまく言えなくて当然なのです。高校生に聞くと95パーセントは話しかけないということです。普段使ってない言葉で、これをコンテクストのずれという。このコンテクストのずれは、コンテクストの違いよりもコミュニケーションの落とし穴になりやすいのじゃないか。ではこの違いというのは何でしょう。要するに文化的な背景が違って、この断絶の方に、私たちは気を使っているのではないか。たとえばチェーホフさんは百年前のロシアに生きていた作家です。百年前のロシアが舞台になってますから、今の私たちに分からない意味のセリフがでてきます。「銀のサモワールでお茶を入れて」という言うセリフが出てきます。ロシアの家庭にはどこにでもサモワールというお茶を入れるツボみたいなものがある、ロシア文学には必ず出てきます。ツルゲーネフにもドストエフスキーにも出てきますが、日本人には全く馴染みがない、昔の新劇の方はまじめだったので分からないことがあると百科事典を調べたり、ロシア料理店へ行って調べたり、触らせてもらったりして、サモワールがさもあるように演じた。これが昔のリアリズム演劇の考え方です。私たちのような小劇場とかアングラ出身の人間はわからないセリフは早口でとか大声でいうとか、ごまかすのですが、考えてる。考えるというのが言い過ぎとすれば、壁は意識しているわけです。「旅行ですか」は考えないでしょう。旅行ですかってどういう意味かとか、どういえばいいのとか考えないですね。考えないでツルッと言っちゃうから失敗する。演劇はいずれにしても他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術ですから、「サモワール」も「旅行ですか」も同じように難しいはずなのです。他人が書いた言葉ですから。でもその難しさに気が付かない分、「旅行ですか」のほうに落とし穴があるのではないか。これは異文化理解でもこういうことがあって、日韓、日露なんかもここ数年ずうっとぎくしゃくしてるわけなのですが、世界中どこ見ても隣同士仲悪いですね。ひとつには文化が近すぎこともあると思います。私たちは靴を脱いで他人の家に上がるときに脱いだら揃えて反転させて上がりますね。韓国のかた結構嫌がる方いらっしゃるんですね。韓国のかたからするとそんなに早く帰りたいのかと思うそうですね。これは靴を脱いで家に上がる文化を共有していることから起こる摩擦です。みなさんも欧米のかたを家に招くことがあると思いますが、まず「ここで靴を脱いでください」から始まるわけです。言わなければそのまま上がるわけですから。しかもほぼ100%脱ぎ散らかします。揃える、まして反転させる文化は日本固有の文化です。あれを美しいと思うのは私たちだけです。私日本人ですから。でもそれを他者に強要できるほどの客観合理性はありません。文化は固有のもので固有の価値観がある。この習慣を「美しいに決まっている」となるともう思考停止です。「決まって」はいません。世界中の70億の残り69億人は別にそう思っていません。これが誰にとっても便利だ、誰にとってもカッコイイと客観合理性を持てると文化ではなく文明になって広がっていく、国境を越えて。しかし日本文化は文明にはならない。もう一つの問題はです、欧米の人たちが脱ぎ散らかした時に揃えてあげますね。そのときあんまり不愉快にならない。それは欧米の人に対するコンプレックスではなくて彼らがそのマナーを知らないということを知っているからです。しようがないな、と。ところがなまじ靴を脱いで家に上がるという文化を共有していると、当然相手も同じ行動をとると思ってしまう、そして同じ行動をとらないとそこに悪意があるように見えたり野蛮に見えたりしてしまう。そこに近い文化と付き合う時のむずかしさがある。だから若い世代にたくさん交流してもらって、やっぱり違いなんだよねという認識から出発しないとこの問題は解決しません。

 

(以下は次号に掲載します。文責 酒井)

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