第11回講演会記録(2)

2018年4月1日、平田オリザ氏をお招きし、国士舘大学梅ヶ丘校舎で行った講演会の記録(1)の続きです
     
さて、チェーホフは百年前ですけれど、もっと最近の事例でいえばテネシー・ウイリアムという作家がいます。これは20世紀のアメリカを代表する作家で1950年代に初めて日本に紹介されました。そのなかで、「ボウリングに行こうよ」というセリフがあります。ところが1950年代ですから日本の俳優たちもボウリングを知らなかった。辞書で調べて、どうやらボウリングは鉄の玉で棒を倒す遊びらしいと意味はかろうじて分かりました。しかしボウリングのイメージはつかめない。ましてボウリングに行こうというセリフのコンテクストは全くつかめません。いま皆さんはボウリングに行こうよというセリフを大体どんなときに使うかイメージできますね。初対面のひとに、つかぬことをお伺いしますが今日ボウリングに行きませんかとは言わないですね。18歳の少年が17歳の少女をデイトに誘う時に、「今日ちょっと将棋ささない」とはいわないですよね。
僕は大阪大学の大学院の理系の学生にクイズを出します。小学校一年生の子が、嬉しそうに学校から走って帰ってきます。「お母さん、お母さん今日、ぼく、宿題やっていかなかったんだけれど、平田先生全然怒んなかったんだよ」と言ったとします。さあ、皆さんがお母さんだとしたらどう答えますか。「よかったわね」 「ダメな先生ね」 「よかったね」 コンピューターの話を先にします。コンピューターにこの文章をインプットすると主に二つの情報が伝わります。ひとつは宿題をやらない、もうひとつは、にもかかわらず怒られない。大方のコンピューターは基本的に過去の蓄積からしか答えが出せない。宿題やらなかったのには、宿題やらなきゃダメときびしくいう、にもかかわらず怒られなかったことに対してはよかったね、もうかったねという答えが返ってきます。でも子供が本当にお父さんお母さんに伝えたかったことは何ですか。嬉しそうに走って帰ってきて、宿題やらなくても怒られなくてもうかっちゃったということを伝えたいという小学生はあんまりいないのです。多分、いちばん伝えたかったのは、平田先生大好き、平田先生やさしい、平田先生のクラスでよかったという気持ちを伝えたかった。そう考えないと、嬉しそうに走って帰ってきたこの部分との整合性がつかない。いいコミュニケーションとは基本的に子供のコンテクストを受け止めてさらに受け止めているということをシグナルとして返してあげるというのがいいコミュニケーションと言われています。子育てとか教育に一般的な解答はないのですが、クイズに答えをつけるとすれば、「ああ、平田先生やさしいね、でも明日はおこられるかもよ」ということがいいかもしれない。ですから「ダメな先生だね」というのはいい答えかもしれない。先生に言及したということでは。すると子供は「そんなことないよ」と会話のチャンスが生まれる。今その子は宿題の話をするつもりは全くないのです。平田先生の話をしてるのです。宿題の話を先にしたら子供はきょとんとしちゃいます。これを繰り返されると、「あ、このおとな、全然自分の言うことをきいてくれないよ」と思ってしまう。
あるいはこういう話もあります。先ほども名前が出ました鷲田清一前大阪大学総長ですね。本職は哲学者ですけれども。彼の著作によく出てくる例で、患者さんが胸が痛いですといえば、すぐ先生を呼んできますという看護師さん、これはだめですね。ふつう看護師さんは、患者さんが胸が痛いというと、どう痛いのですか、いつからですか、と聞きます。ところがコミュニケーション能力の高いといわれる看護師さんは、「ああ、胸が痛いのですね」とおうむ返しにこたえる。要するに「はい、自分はあなたに集中していますよ」「忙しく見えたかもしれないけれど、今はあなたの言うことを全面的に聞いています」ということをシグナルとして出している。患者さんのパニックを抑える。こういう看護師さんは暗黙知をもっていると言われています。こういう話もあります。ホスピスで末期がんの50代男性の患者さんがいます。余命半年と宣告されています。奥さんがつきっきりで看護している。ある解熱剤を投与するのですがこれがなかなか効かない。奥さんが「なんでこの薬を使うのですか」というわけです。そうするとホスピスに集められている優秀な看護師さんたちですから「副作用もなくいい薬ですよ」とやさしく説明します。奥さんその場では納得するのですが、翌日になるとまた同じ質問をする。また一生懸命説明する、答える、これが毎日繰り返される。いくら優秀な方たちでも人の子ですから嫌気がさしてきますね。ナースステーションでも話題になる。ところがある日、ベテランのお医者さんが回診したときに、やはりこの奥さんは何でこの薬を使うのですかと聞いたのです。そのお医者さんはひと言も薬の説明をせずに「奥さん辛いね」と言ったのですね。奥さんその場では泣き崩れたのだけれども、もう二度とその質問はしなくなった。要するにその奥さんが聞きたかったことは薬の効用ではなかったということですね。「なぜ自分の夫だけががんで死んで行かなければいけないのか」という問いかけを誰かに訴えたかった。その問いかけへの答えを近代科学はもっていません。奥さん辛いねと言ったところで、がんは治るかというと治りません。ホスピスはご承知のようにがんを治す機関ではありませんね。治らない患者さんと家族の方に残り半年間を有意義に過ごしてもらうための機関なわけです。だとすればその患者さんやご家族がどう生きたいのかをくみ取れなければ治療には当たれないわけです。皆さんはその現場にいらっしゃるので釈迦に説法ですが、余命半年といわれて、船の旅に出たいですと、論理的にしゃべってくださる患者さん、ご家族は稀であって、泣いたり喚いたりパニック状態になったり、どうしてこの薬使うんですかと逆切れされたりするわけです。その中からコンテクストをくみ取らないと治療にはあたれない。大変な仕事ですね。
実際にわたし、10年前に大阪大学によばれたときに、医学部出身の副学長から、コンピューターでは読み取りことのできない、患者さんのコンテクストでの複雑な気持ちをくみ取れるような医者や看護師を育てたいというので、劇作家であるあなたを呼びましたと、言われました。そういう時代にもうなってきたということかなと思います。
大阪大学の大学院なんかにおりますと、さっき申し上げたグローバルコミュニケーションに、もうひとつリーダ-シップ教育を考えます。これは人を引っ張っていく力とかディベートに強いとか、クリティカルシンキングとか、まあ国際社会では大事だと思いますが、さらにもうひとつ日本のリーダーに必要なのは、患者さんとか子供とか高齢者とか社会的弱者のコンテクストを理解する能力ではないかと思います。論理的にしゃべる能力はもちろん必要ですが、論理的にしゃべれない人の気持ちをくみ取る能力が同じだけ必要ではないか。日本社会は少子高齢化、多額の借金のある国です。もう高度経済社会は望めません。これからの社会では社会的弱者のコンテクストを理解する能力の方が、人を引っ張っていくリーダーがより重要になっていくのではないか。少なくとも大阪大学としてはそういう社会的弱者を理解するリーダーを育てたいという教育方針なのです。
もう一度最初の「旅行ですか」にもどります。AさんがCさんに旅行ですかと話しかける。話しかけるのは全部Aさんの能力、努力にかかわってくるのでしょうか。現実の社会で、話しかけるかどうかは相手によるのです。すると話しかけられやすい演技って何ということになります。こういうものを「関係」としてとらえていこうとしたのが90年代に出てきた新しいコミュニケーション教育のあり方なのです。話しかけやすい関係になっているか。話しかけやすい場所作りができているのかということです。大阪大学のコミュニケーションセンターというのは、まさにこういう哲学、こういう思想で生まれた世界でも非常に珍しい教育方法です。私たちは説明のうまい医者や科学者を育成したいわけではないです。文科省はそれを育成しろとカリキュラムを作らせたのですが、私たちはそうではないのです。患者さんがお医者さんに質問しやすいような椅子の配置になってるかどうか、壁の色はどうか、天井の高さはどうか、受付から診察室までの道のりが患者さんを緊張させてないかどうか。これは全部デザインの問題です。あるいは医療過誤を起こしにくいような組織になっているか、事故が起きた時に下から上に情報が伝わるか。これは情報のデザインになります。さらにもっと広げていくと、病院の建物自体が患者さんを緊張させていないか。これは建築のデザインの問題です。あるいはもっと広げていくと病院は町のどこにあればいいのか、交通アクセスはなにがいいのか、交通行政、街づくりのデザインになる。患者さんがお医者さんに質問がしにくいのは、お医者さんが威張っているのではなくて患者さんがバスを3台も乗り継いできたから。原因がどこにあるか分からないこういう原因と結果を一直線に結び付けない考え方を学問の世界では複雑系と言います。コミュニケーションの問題をこの複雑系のなかでとらえるのがコミュニケーションデザイン、デザインするという考え方。あるいはコミュニケーションがうまくいっていない時にそれを個人の能力に帰すのではなく、デザインを疑ってみる。これがコミュニケーションデザインというものの考え方です。大阪大学は本当に社会に役に立つ学生を作ろう、本当に社会に役に立つ医者を作ろうというのが教育方針です。
じゃあ、実際のワークショップで何をやるかというと、例えばこの高校生のA君はなかなかうまく「旅行ですか」と言えない。高校生に、旅行ですかというセリフを言わせるのは難しいんです。どうしたらよいか。経験の浅い演出家、指導者ほど話しかける側の気持ちになって話しかけなさいと要求しがち。でも高校生はできない。話しかける時にその人の気持ちになってごらんという問いかけは、従来型学力のある、頭の回転の速い子、話しかけた経験のある子にしか通用しない。でも、「話しかけたことある?」「どんな時なら話しかける?」「相手がサッカーの雑誌をもっていたら話しかけるんじゃないの?」「サッカー好きなんだよね」という問いかけならば適用できるのです。これを教育学の世界ではエンパシー、シンパシー型の教育からエンパシー型の教育にといいます。私は,同情から共感へ、同一性から共有性へというふうに訳しています。
小中学校でよくいイジメのロールプレイをやるのですが、経験の浅い先生ほど、イジメられる子の気になってごらんというんです。イジメめられる子の気持ちがすぐわかるならイジメないですよ。日本のイジメ問題の深刻なのは、イジメてる子のイジメをしている意識が希薄なところが問題なのです。イジメてる気持ちがない子にイジメられてる子の気持ちになってごらんと言っても、その気のない子に分からないです。分からないからいじめてしまう。でも、いじめっ子の側にもほかの子から何かされて嫌だった経験はあるはずなのです。だから、ほら、1週間前、A君から何かされてイヤそうにしてた、さっきのBちゃんと似てるよ、と言うと、ちょっと会話の回路が開けてくる。もちろん小学生だったら100%反論するでしょうね。「いや、違うもん、1週間前のはAが絶対悪いもん、さっきおれは遊んでただけだもん」 でもそう言ってくれれば教員の側としてはチャンスです。「そうかな、先生から見たらすごく似てたけど。じゃあどこがちがうの。A君にとってのイジメとイジリと遊び、B君にとってのイジメとイジリと遊び、そして君にとってのイジメとイジリと遊び、がどこがどう違うんだろう」まさにコンテクストのズレからイジメが起こったわけですね。ある子のとってはイジメなのだけれども、ある子にとっては遊びなんです。だからなかなか問題が解決しない。いじめられた子の気持ちになるのではなくて、いじめられた子の気持ちと自分の気持との共有できる部分をどうにかしていく、そこから少しづつ解決の糸口を探っていく。時間はかかるけれども、このエンパシー型のほうが最終的な問題解決に近づいていけるのではないか。エンパシー型教育の趣旨です。
今、大学で共通した課題としてあるのは、3年次にインターンに出るころになって患者さんの気持ちが分からない、障害者の気持ちが分からない、とリタイヤしてしまう真面目な人が一定数いる。だが、ベテランの看護師さんは患者さんを大勢みている、その一人一人と同一化していたら仕事にならない。だから何か接点を見つけてコミュニケーションをとっているのです。完全に相手と同一化しなければコミュニケーション取れないなんてことになったら大変です。そうじゃなくて、いや分からないよ、人の気持ちなんて分からない、だからどうにかして共感できる部分をちょっとずつでも見つけて、相手とコミュニケーションをとっていきましょうということです。
「対話」というのはこの連続した講演会のテーマですが、ひとつだけ申します。会話と対話をきちんと区別することが大事と言われます。英語ではダイアローグとカンバセーション、明確な違いはあるのですが、日本語ではあんまり違いは意識されてきませんでした。私なりの定義は、会話は親しい人同士のおしゃべり、対話は知らない人との情報の交換、交換していくと価値観の違いを摺合せできる。
日本は島国で稲作文化、全体で田植えをして村全体で助け合って、同じような価値観、同じようなライフスタイルを持った人間同士のコミュニケーションにたけた文化を培ってきました。これを分かり合う、察しあう文化と言います。私たちは素晴らしい芸術を生み出してきました。たとえば俳句や短歌という世界で最も短い詩の形式です。「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」と言っただけでここにいるみなさんは斑鳩の里の夕暮れの風景をなんとなく思い浮かべる。これはすごい能力ですね。こういうものを言語学の世界ではハイコンテクストの社会という。だが、残念ながら世界に出ると私たちは少数派である。少数派を認識する必要がある、国際社会で生きていくなかで。そうじゃないと、日本人のへんなやつ、無口なくらいやつという扱いになる。少数派だからと言って卑屈になる必要もない。私たちがこれからやらなければいけないことは、この日本文化に根差しながら、それをどうやって異なる文化を持つ人に説明していけるか。こういう能力がこれから必要になる。そのために、この対話の能力が必要です。
ここで言語学の世界に冗長率という言葉があります。冗長率というのは、あるセンテンス、あるパラグラフの中で意味伝達と関係ない言葉がどれくらい入っているかという統計です。当然、会話が冗長率高くなると思われますが、意外と言語学的には冗長率は高くならないのです。いちばん冗長率低いのは長年連れ添った夫婦の会話。それから演説やスピーチも冗長率は低くなります。いちばん冗長率高くなるのは対話です。対話は異なる価値観のすり合わせなので時間がかかる。今まで私たちが受けてきた国語教育は冗長率を低くする方向で教えられてきました。きちんとしゃべる、無駄なことは言うな。書き言葉の教育ならこれでよかったのです。話し言葉はそうではないです。あの人は話がうまいなと思えるのは冗長率の低い人ではないのです。論理的にしゃべる人ではないのです。冗長率の切り替えがうまくできるかどうかがコミュニケーションのひとつの要素です。
最後に、僕は不登校の子と付き合うことがすごく多いんです。フリースクールで演劇を使っていただくことが多いのです。不登校の子っていうのはそれまでいい子だった子が多い。社会的にいい子だった。大体みな、いい子を演じるのに疲れたというんです。
大人はサラリーマンという自分、教員という自分、家に帰ったら夫という自分、親という自分、親と暮らしていれば子供という自分、マンションでの管理組合の役員の人、近所づきあい、趣味のフットサル、フォワードの自分、同窓会に出てきたら子供時代の自分の役割、いろんな社会的な役割りを演じながら、人生の時間を前へ前へ進めていく。そんなことみんなわかっているのに、子供には本当の自分を見つけなさいという。玉ねぎはどこからが皮でどこからが玉ねぎということはないわけです。皮の全体が玉ねぎを構成しています。人間もそんなもんです。こういうものを演劇や心理学の世界でペルソナといいます。仮面の意味を兼ね備えています。仮面の総体が人格を形成している。子供たちは仮面をかぶっている。昔は、学校での時間があって、無邪気に遊ぶ自分、甘えられる自分、しっかりしなけりゃいけない自分。こういうものを繰り返すことによって自分というものが形成されてきたのだと思う。今は学校の授業時間、部活、放課後、ずーっとラインでつながっていて、ひとつのキャラを演じ続けなければならない。これは疲れる。これをキャラ疲れという。これがひどくなると不登校や引きこもりになる。
要するに問題の本質は明らかです。演じるのが悪いのではなく、演じさせられてると感じた瞬間に仮面が重くなってしまう。だから僕は逆に、主体的に演じる人格を作っていくことが必要じゃないかと思います。私の友人で京大の総長をやってる山際寿一という人がいます。ゴリラの専門家です。ゴリラは親になると父親を演じるといいます。でも、妻に対する態度と子に対する態度が違うということはない。演じ分けることはしない。チンパンジーは群れ単位で行動する。ゴリラは家族単位で行動する、人間だけがその両方に所属する。人間だけが家族と群れという単位の両方に所属する。そのために私たちは演じ分けるという行為を生み出した。この能力が人間の複雑な社会を築く基盤になる。ですから演じ分けるという能力は人間を人間たらしめているもっとも重要な能力と考えられると思っていい。少なくとも教育の役割は、いい子を演じるのに疲れない子どもをつくる、できるならば、いい子を演じるのを楽しむぐらいのしたたかな、しなやかな子どもをつくる。それが今僕が取り組んでいる教育の目標です。私たちは常に現実の社会では、多様なさまざまな人々と関わりながら生きていかなくてはいけません。その時に最も重要な能力は、その時、その場に応じて、相手に応じてさまざまな人格を演じ分けて生きていく力をつける。そのことを演劇を通じてお伝えできればと思っております。       (文責 酒井忠昭)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です