ニュースレター15号から

古代の医学全書-『医心方』「世界記憶遺産」登録をめざして 

支援者  野村彰男   

私は先ごろ、現存する日本最古の医学全書である『医心方』を、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録しようという運動の発起人のひとりに名を連ねることになりました。10月には衆参の医師会系議員や横倉医師会長、医学者らも参加して、衆院議員会館で登録推進をめざす議員連盟の設立総会も開かれました。

『医心方』は、丹波康頼という宮廷医が漢訳された多くの中国医書等からまとめあげ984年に朝廷に献上した全30巻からなる医学全書で、国宝です。丹波康頼が参考にした中国の薬物に関する本草書や養生書、鍼灸などに加え、道教や儒教、易経といった宗教や哲学にまでいたる広範な文献二百数十の文献は、難解な文字と古漢文、さらに万葉仮名が使われ、薬剤の原料とされた植物、鉱物などの産地は、アジア全域からユーラシア等にも及ぶといいます。この書が世間に知られるようになったのは、菊池寛賞やエイボン功績賞などを受賞している作家・槇佐知子さん(85)が、心血を注いで現代語訳に挑み、30巻、全33冊の全集として筑摩書房からの出版にこぎつけたからです。槇さんは作家活動を続けるなかで、日本の古典文学でもっとも多様な文字が使われている『今昔物語』を繰り返し読み、『万葉集』を万葉仮名で読んでいたことから、『医心方』に出合ったとき「あまり抵抗なく読めた」といいます。とはいえ、難解な医書を訳すために、独自な文字を繰り返し整理して、何千字という部首字書を自分で作って解読を進めたという、半生をかけた努力の結晶なのです。 医学にはまったく門外漢の私がこの運動に関わることになったのは、その槇さんが、私と同じ静岡県相良町(現牧之原市)の出身で、小学校1年のときの担任がたまたま私の母だった、という縁からなのです。私より10歳ほど年上の槇さんは、母の先生ぶりをなつかしがり、朝日新聞で記者をしていた私ともしばらく前から賀状のやりとりなどをするようになりました。電話で話したこともありましたが、実際に会ったのは発起人会をつくる集まりのときが初めてでした。いまでは医学関係者や一般人を対象に『医心方』に関する講演をこなす槇さんですが、もともと医学を学んだ人ではありませんから、その現代語訳には医学研究者の中からは冷ややかな声が出たこともあったようです。しかし、それにめげず解読作業を最後までやりとげた彼女の強さ、千年余り前の「人間の心と体に関するあらゆる知識を結集させた」貴重な文化遺産の存在と価値を現代人に分かってもらおうとする、その精神力には頭が下がります。 槇さんは自分が病気やけがをすると、ときに『医心方』で説かれている処方を実践してもみるそうです。それだけでなく、天皇、皇后両陛下にも献上し、関心をもたれた美智子さまに招かれて、『医心方』をめぐる話し交わしたこともあるとのこと。海外では「ベートーベンの『第九』」の楽譜や「アンネ・フランクの日記」などが記憶遺産に登録され、日本でも藤原道長の日記『御堂関白記』や、1945年から1956年にわたるシベリア抑留日本人の本国引き揚げの記録などがすでに登録済みです。『医心方』登録までの道のりは手間がかかり、こちらの活動はようやく一歩を踏み出したばかりですが、槇さんのためにも、早く実を結んでほしいと願っています。

 

お祖母(ばあ)ちゃんの心を伝える     

ピアニスト  セイダ・R・鈴木

私はセイダ、75歳になります。カリブ海で最大の島のキューバで生まれました。小さい時世界で一番好きな人はアブエラ・ブランキータでした。アブエラは母の母国のスペイン語でお祖母(ばあ)ちゃんのことです。アブエラ・ブランキータは親のいない子供で、小さい頃、1年だけピアノを習い、貴族のサロンで美しいピアノ曲を1時間演奏しました。当時、ラジオもテレビもない時代でした。私の未来のお祖父(じい)ちゃんは音楽が大好きで、コモ湖出身、キューバに派遣された最初のイタリア領事でした。お祖父(じい)ちゃんはアブエラの心をつかみ16歳のとき結婚しました。子供が8人でき、私の父は8番目です。
私が生まれたとき、アブエラ・ブランキータは70歳の未亡人でした。隣に住んでいたので私は毎日会っていました。美味しいご馳走を作り、笑わすお話をしてくれ、驚くほどの達筆で詩を書き、とても楽しいカードゲームをしてくれました。なかでも一番はピアノを弾いてくれることでした。
ある日、突然ピアノを弾く手をとめ、夕飯のシチューをかき回さなくっちゃ、と云って立ち上がりました。お祖母(ばあ)ちゃんが台所に行ったあと、私はピアノの椅子によじ登り、お祖母(ばあ)ちゃんの弾きかけの曲を弾き終えました。そのときがピアノの弾き始めで、話ではまだ3歳になっていませんでした。
数カ月後、私はちゃんとしたピアノレッスンを受け、音楽の勉強を始めました。3年後、6歳のときハバナ市の音楽学校に入り、12歳でピアノと音楽理論の学位をとって卒業しました。16歳のときカーティス音楽院のルドルフ・ゼルキンの指導許可を得て、アメリカのフィラデルフィアに渡りました。1960年、勉強を始めて最初の夏休みにキューバに帰ったとき、まずしたことは86歳になるお祖母(ばあ)ちゃんを尋ねることでした。キューバの習慣にしたがって私たちは抱き合い、キスをしましたが、彼女は私にピアノを弾いてくれといいました。お祖母(ばあ)ちゃんは、左手の使い方が上手いと褒めてくれました。私たちは音楽がどんなに慰めになり、楽しく、平穏で、純粋なものかと話し合いました。それから私はお祖母(ばあ)ちゃんにピアノを弾くように頼みました。彼女は優美に弾きはじめましたが、椅子のとなりに坐っている私にゆっくりと寄りかかるようになり、私の腕のなかで亡くなりました。顔には笑みが浮かんでいました。
1964年、私の夫の鈴木秀太郎とともに日本で演奏活動を始めて以来、私は夫の小学校、中学校の同窓会のメンバーとして会に参加することを認められました。これは日本では例外的なことで、光栄なことだと深く感謝しています。それ以上に、このことは私がキューバに残している親しい学友たちと離れている心の空白を埋めてくれます。
夫の秀太郎のよい友人のひとりは酒井医師です。彼は「心の専門家」で、秀太郎と私が、アブエラ・ブランキータがしたように、仲間を悦ばせ、慰め、癒し、力づける音楽を演奏することをよく理解しています。1994年6月、駒込病院の演奏会では、私たちはヴァイオリンとピアノで末期がんの患者、彼らの家族、看護師、医師ら、参加した400人に愛を届けました。音楽を聴くうちに皆さんの顔がだんだんと穏やか変わるのは、大きな悦びでした。確か、東京やそのほかの病院で6,7回演奏会をしたと思います。よく覚えているのは、看護師の大須賀さんにとても難しい曲の譜めくりをしていただいたことです。
それ以来、原発災害で避難を余儀なくされた子供たちのためのチャリティコンサート(銀座王子ホール、2016年)、NPOコンサート(世田谷区、2017、2018年)など、定期的な音楽の悦びの配達を、夫と一緒に心をこめて続けています。
皆で、私たちの世界がずっとしっかり繋がり、お互いに支え合い、少しでも寂しくない場所になるように、歌い続け、音楽を抱き続けましょう。

<セイダさんの原文>
My name is Zeyda. 75 years ago, I was born in Cuba, the largest island of the Caribbean Sea. When I was a little girl, my favorite person in the world was my Abuela Blanquita. Abuela is grandmother in Spanish, my mother tongue.
Abuela Blanquita was an orphan at a young age and studied the piano for one year only, learning one hour of charming piano pieces that she played in aristocratic salons in Havana, at a time when there was no radio or television. My future grandfather, a music lover from Lake Como and the first Italian Consul in Cuba, won her heart and married her when she was 16. They had 8 children and my father was the eighth.
By the time I was born, Abuela Blanquita was a 70-year-old widow. Since she lived next door to our house, I could visit her every day. Besides making delicious food for me, she would tell me stories that made me laugh, write poetry in her elegant handwriting that amazed me, and teach me card games that were so much fun. Best of all, she would play the piano for me.
One day, Abuela Blanquita suddenly stopped playing and told me she had to stir the stew she was cooking for dinner. While she was in the kitchen, I climbed up on the piano bench and finished the piece she had been playing. So that is when I started to play the piano, by ear and not yet three years old.
A few months later, I formally started taking piano lessons and learned how to read music. Three years later, at age 6, I entered Havana’s Municipal Conservatory, graduating at age 12 with diplomas in piano and music theory. At age 16, I was accepted to study with Rudolf Serkin at the Curtis Institute of Music, and I moved to Philadelphia in the United States.
When I returned to Cuba after my first year of studies for summer vacation in 1960, the first thing I did was to visit Abuela Blanquita. She was 86 years old. We embraced and kissed as it is customary in Cuba, and she asked me to play for her. She congratulated me for improving my left hand technique. We talked about how music consoles and rejoices as well as gives peace and sanity. I then asked her to play for me, and as she was gracefully doing so, she gently leaned towards me, who was sitting on a chair next to the piano bench, and she died in my arms with a smile on her face.
Since my husband Hidetarō Suzuki and I began performing together in Japan in 1964, I have been privileged to participate in his primary and middle school class reunions as an “adopted” member, which was, and perhaps still is, out of the norm in Japan, and I was deeply moved by this honor. Beyond that, it has filled a void in my life as I was separated from my own dear classmates when I left Cuba.
One of Hidetarō ‘s wonderful classmates is Dr. Tadaaki Sakai. A heart specialist, he truly has a heart of gold! He is a very sensitive person and he realized keenly that Hidetarō and I play our music like Abuela Blanquita did: to cheer, to console, to heal, and to strengthen our fellow human beings.
Dr. Sakai first invited us to play at Tokyo’s Komagome Hospital in June 1994. It was a concert communicating our love through violin and piano music to the terminally ill patients and their families, nurses, and doctors. 400 people attended. It was the greatest joy to see their faces transformed as they heard the music.
I believe we played six or seven more concerts in hospitals in Tōkyō and elsewhere. One clear memory is Nurse Osuna expertly turning pages for me in a particularly difficult program!
Since then, we have regularly collaborated with our full hearts on inspired projects that Dr. Sakai led, including the benefit concert for Fukushima children displaced by the nuclear plant explosion ( at Ginza’s Ōji Hall on March 11th, 2016), and NPO concerts in October 2017 and 2018 in Setagaya-ku.
Let us all continue singing and making music so that our our world is a more connected, more supportive, and less lonely place.
-Zeyda Ruga Suzuki

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