ナイスエイジングこそ    人生の醍醐味    

2019年11月9日の土曜日、国士舘大学メイプルセンチュリーホールで、帯津良一氏を講師とする第12回NPOホームケアエクスパーツ協会主催、世田谷区後援の講演会・討論会がもたれた。

60名近くの参加者は帯津先生の話術、深くまた面白い内容に大満足、拍手、大喝采と笑いにみちた午後のひとときとなりました。

愚者の私に響いた言葉は;食べたいものは体が欲しているのだから我慢しないでたべればよい。年をとったからといって「ときめき」を押さえては駄目だ等々。

ぜひ下記をクリックして講演の全貌をお楽しみください。

第12回講演会のお知らせ

認定NPOホームケアエクスパーツ協会は、毎年、当協会の活動に相応しい講師をお招きし、講演会を開催してまいりました。本年は帯津良一先生にお招きしました。帯津先生は西洋医学に中国医学や代替療法を取り入れた統合医学という新機軸を基にホリスティック医学の確立を目指し、がん患者などの治療に当たり、また、豊富な経験と深い学識を背景にして講演、著作に取り組まれておられます。

当NPOではこれまでの経験から、心のこもったコミュニケーションこそ豊かな晩年を彩るキーワードと考えますが、帯津先生にはコミュニケーションに関して「ホリスティック・カウンセリング」(春秋社)のご著書もあり、講演でご啓発いただけることを期待しております。

医療、福祉関係者、ケアに携わる方、家族の方、テーマに関心ある皆さまのご参加を心より歓迎いたします。参加ご希望の方はNPO法人ホームケアエクスパーツ協会の電話(03-3468-0369)、ファックス(03-5465-2710)へお申し込みください。

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日時  2019年11月9日(土)  13:30~16:30(受付 13:00)会場  国士舘大学 メイプルセンチュリーホール

    (世田谷キャンパス、世田谷区役所側の南門に隣接)

テーマ「コミュニケーションと命(いのち)」

講演「ナイスエイジングこそ人生の醍醐味」 帯津良一氏

    講演後グループに分かれて意見交換を予定しております。

参加料  無料

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<講師略歴>

帯津良一氏  1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業、東京大学医学部第三外科、都立駒込病院外科医長を経て、現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長、医学博士。著書に「ホリスティック医学入門」(角川oneテーマ21)、「がん患者を治す力」(朝日文庫)、「気功的人間になりませんか」(風雲舎)、「いい場を創ろう」(風雲舎)、「養生訓」(五木寛之共著、平凡社)「後悔しない逝き方」(東京堂出版)、週刊朝日コラム連載、など多数.

 

主催  認定NPOホームケアエクスパーツ協会

〒155-0033 世田谷区代田6-6-9アルコーブ下北沢B1

電話 03-3468-0369  Fax 03-5465-2710

後援  世田谷区

第11回講演会記録(2)

2018年4月1日、平田オリザ氏をお招きし、国士舘大学梅ヶ丘校舎で行った講演会の記録(1)の続きです
     
さて、チェーホフは百年前ですけれど、もっと最近の事例でいえばテネシー・ウイリアムという作家がいます。これは20世紀のアメリカを代表する作家で1950年代に初めて日本に紹介されました。そのなかで、「ボウリングに行こうよ」というセリフがあります。ところが1950年代ですから日本の俳優たちもボウリングを知らなかった。辞書で調べて、どうやらボウリングは鉄の玉で棒を倒す遊びらしいと意味はかろうじて分かりました。しかしボウリングのイメージはつかめない。ましてボウリングに行こうというセリフのコンテクストは全くつかめません。いま皆さんはボウリングに行こうよというセリフを大体どんなときに使うかイメージできますね。初対面のひとに、つかぬことをお伺いしますが今日ボウリングに行きませんかとは言わないですね。18歳の少年が17歳の少女をデイトに誘う時に、「今日ちょっと将棋ささない」とはいわないですよね。
僕は大阪大学の大学院の理系の学生にクイズを出します。小学校一年生の子が、嬉しそうに学校から走って帰ってきます。「お母さん、お母さん今日、ぼく、宿題やっていかなかったんだけれど、平田先生全然怒んなかったんだよ」と言ったとします。さあ、皆さんがお母さんだとしたらどう答えますか。「よかったわね」 「ダメな先生ね」 「よかったね」 コンピューターの話を先にします。コンピューターにこの文章をインプットすると主に二つの情報が伝わります。ひとつは宿題をやらない、もうひとつは、にもかかわらず怒られない。大方のコンピューターは基本的に過去の蓄積からしか答えが出せない。宿題やらなかったのには、宿題やらなきゃダメときびしくいう、にもかかわらず怒られなかったことに対してはよかったね、もうかったねという答えが返ってきます。でも子供が本当にお父さんお母さんに伝えたかったことは何ですか。嬉しそうに走って帰ってきて、宿題やらなくても怒られなくてもうかっちゃったということを伝えたいという小学生はあんまりいないのです。多分、いちばん伝えたかったのは、平田先生大好き、平田先生やさしい、平田先生のクラスでよかったという気持ちを伝えたかった。そう考えないと、嬉しそうに走って帰ってきたこの部分との整合性がつかない。いいコミュニケーションとは基本的に子供のコンテクストを受け止めてさらに受け止めているということをシグナルとして返してあげるというのがいいコミュニケーションと言われています。子育てとか教育に一般的な解答はないのですが、クイズに答えをつけるとすれば、「ああ、平田先生やさしいね、でも明日はおこられるかもよ」ということがいいかもしれない。ですから「ダメな先生だね」というのはいい答えかもしれない。先生に言及したということでは。すると子供は「そんなことないよ」と会話のチャンスが生まれる。今その子は宿題の話をするつもりは全くないのです。平田先生の話をしてるのです。宿題の話を先にしたら子供はきょとんとしちゃいます。これを繰り返されると、「あ、このおとな、全然自分の言うことをきいてくれないよ」と思ってしまう。
あるいはこういう話もあります。先ほども名前が出ました鷲田清一前大阪大学総長ですね。本職は哲学者ですけれども。彼の著作によく出てくる例で、患者さんが胸が痛いですといえば、すぐ先生を呼んできますという看護師さん、これはだめですね。ふつう看護師さんは、患者さんが胸が痛いというと、どう痛いのですか、いつからですか、と聞きます。ところがコミュニケーション能力の高いといわれる看護師さんは、「ああ、胸が痛いのですね」とおうむ返しにこたえる。要するに「はい、自分はあなたに集中していますよ」「忙しく見えたかもしれないけれど、今はあなたの言うことを全面的に聞いています」ということをシグナルとして出している。患者さんのパニックを抑える。こういう看護師さんは暗黙知をもっていると言われています。こういう話もあります。ホスピスで末期がんの50代男性の患者さんがいます。余命半年と宣告されています。奥さんがつきっきりで看護している。ある解熱剤を投与するのですがこれがなかなか効かない。奥さんが「なんでこの薬を使うのですか」というわけです。そうするとホスピスに集められている優秀な看護師さんたちですから「副作用もなくいい薬ですよ」とやさしく説明します。奥さんその場では納得するのですが、翌日になるとまた同じ質問をする。また一生懸命説明する、答える、これが毎日繰り返される。いくら優秀な方たちでも人の子ですから嫌気がさしてきますね。ナースステーションでも話題になる。ところがある日、ベテランのお医者さんが回診したときに、やはりこの奥さんは何でこの薬を使うのですかと聞いたのです。そのお医者さんはひと言も薬の説明をせずに「奥さん辛いね」と言ったのですね。奥さんその場では泣き崩れたのだけれども、もう二度とその質問はしなくなった。要するにその奥さんが聞きたかったことは薬の効用ではなかったということですね。「なぜ自分の夫だけががんで死んで行かなければいけないのか」という問いかけを誰かに訴えたかった。その問いかけへの答えを近代科学はもっていません。奥さん辛いねと言ったところで、がんは治るかというと治りません。ホスピスはご承知のようにがんを治す機関ではありませんね。治らない患者さんと家族の方に残り半年間を有意義に過ごしてもらうための機関なわけです。だとすればその患者さんやご家族がどう生きたいのかをくみ取れなければ治療には当たれないわけです。皆さんはその現場にいらっしゃるので釈迦に説法ですが、余命半年といわれて、船の旅に出たいですと、論理的にしゃべってくださる患者さん、ご家族は稀であって、泣いたり喚いたりパニック状態になったり、どうしてこの薬使うんですかと逆切れされたりするわけです。その中からコンテクストをくみ取らないと治療にはあたれない。大変な仕事ですね。
実際にわたし、10年前に大阪大学によばれたときに、医学部出身の副学長から、コンピューターでは読み取りことのできない、患者さんのコンテクストでの複雑な気持ちをくみ取れるような医者や看護師を育てたいというので、劇作家であるあなたを呼びましたと、言われました。そういう時代にもうなってきたということかなと思います。
大阪大学の大学院なんかにおりますと、さっき申し上げたグローバルコミュニケーションに、もうひとつリーダ-シップ教育を考えます。これは人を引っ張っていく力とかディベートに強いとか、クリティカルシンキングとか、まあ国際社会では大事だと思いますが、さらにもうひとつ日本のリーダーに必要なのは、患者さんとか子供とか高齢者とか社会的弱者のコンテクストを理解する能力ではないかと思います。論理的にしゃべる能力はもちろん必要ですが、論理的にしゃべれない人の気持ちをくみ取る能力が同じだけ必要ではないか。日本社会は少子高齢化、多額の借金のある国です。もう高度経済社会は望めません。これからの社会では社会的弱者のコンテクストを理解する能力の方が、人を引っ張っていくリーダーがより重要になっていくのではないか。少なくとも大阪大学としてはそういう社会的弱者を理解するリーダーを育てたいという教育方針なのです。
もう一度最初の「旅行ですか」にもどります。AさんがCさんに旅行ですかと話しかける。話しかけるのは全部Aさんの能力、努力にかかわってくるのでしょうか。現実の社会で、話しかけるかどうかは相手によるのです。すると話しかけられやすい演技って何ということになります。こういうものを「関係」としてとらえていこうとしたのが90年代に出てきた新しいコミュニケーション教育のあり方なのです。話しかけやすい関係になっているか。話しかけやすい場所作りができているのかということです。大阪大学のコミュニケーションセンターというのは、まさにこういう哲学、こういう思想で生まれた世界でも非常に珍しい教育方法です。私たちは説明のうまい医者や科学者を育成したいわけではないです。文科省はそれを育成しろとカリキュラムを作らせたのですが、私たちはそうではないのです。患者さんがお医者さんに質問しやすいような椅子の配置になってるかどうか、壁の色はどうか、天井の高さはどうか、受付から診察室までの道のりが患者さんを緊張させてないかどうか。これは全部デザインの問題です。あるいは医療過誤を起こしにくいような組織になっているか、事故が起きた時に下から上に情報が伝わるか。これは情報のデザインになります。さらにもっと広げていくと、病院の建物自体が患者さんを緊張させていないか。これは建築のデザインの問題です。あるいはもっと広げていくと病院は町のどこにあればいいのか、交通アクセスはなにがいいのか、交通行政、街づくりのデザインになる。患者さんがお医者さんに質問がしにくいのは、お医者さんが威張っているのではなくて患者さんがバスを3台も乗り継いできたから。原因がどこにあるか分からないこういう原因と結果を一直線に結び付けない考え方を学問の世界では複雑系と言います。コミュニケーションの問題をこの複雑系のなかでとらえるのがコミュニケーションデザイン、デザインするという考え方。あるいはコミュニケーションがうまくいっていない時にそれを個人の能力に帰すのではなく、デザインを疑ってみる。これがコミュニケーションデザインというものの考え方です。大阪大学は本当に社会に役に立つ学生を作ろう、本当に社会に役に立つ医者を作ろうというのが教育方針です。
じゃあ、実際のワークショップで何をやるかというと、例えばこの高校生のA君はなかなかうまく「旅行ですか」と言えない。高校生に、旅行ですかというセリフを言わせるのは難しいんです。どうしたらよいか。経験の浅い演出家、指導者ほど話しかける側の気持ちになって話しかけなさいと要求しがち。でも高校生はできない。話しかける時にその人の気持ちになってごらんという問いかけは、従来型学力のある、頭の回転の速い子、話しかけた経験のある子にしか通用しない。でも、「話しかけたことある?」「どんな時なら話しかける?」「相手がサッカーの雑誌をもっていたら話しかけるんじゃないの?」「サッカー好きなんだよね」という問いかけならば適用できるのです。これを教育学の世界ではエンパシー、シンパシー型の教育からエンパシー型の教育にといいます。私は,同情から共感へ、同一性から共有性へというふうに訳しています。
小中学校でよくいイジメのロールプレイをやるのですが、経験の浅い先生ほど、イジメられる子の気になってごらんというんです。イジメめられる子の気持ちがすぐわかるならイジメないですよ。日本のイジメ問題の深刻なのは、イジメてる子のイジメをしている意識が希薄なところが問題なのです。イジメてる気持ちがない子にイジメられてる子の気持ちになってごらんと言っても、その気のない子に分からないです。分からないからいじめてしまう。でも、いじめっ子の側にもほかの子から何かされて嫌だった経験はあるはずなのです。だから、ほら、1週間前、A君から何かされてイヤそうにしてた、さっきのBちゃんと似てるよ、と言うと、ちょっと会話の回路が開けてくる。もちろん小学生だったら100%反論するでしょうね。「いや、違うもん、1週間前のはAが絶対悪いもん、さっきおれは遊んでただけだもん」 でもそう言ってくれれば教員の側としてはチャンスです。「そうかな、先生から見たらすごく似てたけど。じゃあどこがちがうの。A君にとってのイジメとイジリと遊び、B君にとってのイジメとイジリと遊び、そして君にとってのイジメとイジリと遊び、がどこがどう違うんだろう」まさにコンテクストのズレからイジメが起こったわけですね。ある子のとってはイジメなのだけれども、ある子にとっては遊びなんです。だからなかなか問題が解決しない。いじめられた子の気持ちになるのではなくて、いじめられた子の気持ちと自分の気持との共有できる部分をどうにかしていく、そこから少しづつ解決の糸口を探っていく。時間はかかるけれども、このエンパシー型のほうが最終的な問題解決に近づいていけるのではないか。エンパシー型教育の趣旨です。
今、大学で共通した課題としてあるのは、3年次にインターンに出るころになって患者さんの気持ちが分からない、障害者の気持ちが分からない、とリタイヤしてしまう真面目な人が一定数いる。だが、ベテランの看護師さんは患者さんを大勢みている、その一人一人と同一化していたら仕事にならない。だから何か接点を見つけてコミュニケーションをとっているのです。完全に相手と同一化しなければコミュニケーション取れないなんてことになったら大変です。そうじゃなくて、いや分からないよ、人の気持ちなんて分からない、だからどうにかして共感できる部分をちょっとずつでも見つけて、相手とコミュニケーションをとっていきましょうということです。
「対話」というのはこの連続した講演会のテーマですが、ひとつだけ申します。会話と対話をきちんと区別することが大事と言われます。英語ではダイアローグとカンバセーション、明確な違いはあるのですが、日本語ではあんまり違いは意識されてきませんでした。私なりの定義は、会話は親しい人同士のおしゃべり、対話は知らない人との情報の交換、交換していくと価値観の違いを摺合せできる。
日本は島国で稲作文化、全体で田植えをして村全体で助け合って、同じような価値観、同じようなライフスタイルを持った人間同士のコミュニケーションにたけた文化を培ってきました。これを分かり合う、察しあう文化と言います。私たちは素晴らしい芸術を生み出してきました。たとえば俳句や短歌という世界で最も短い詩の形式です。「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」と言っただけでここにいるみなさんは斑鳩の里の夕暮れの風景をなんとなく思い浮かべる。これはすごい能力ですね。こういうものを言語学の世界ではハイコンテクストの社会という。だが、残念ながら世界に出ると私たちは少数派である。少数派を認識する必要がある、国際社会で生きていくなかで。そうじゃないと、日本人のへんなやつ、無口なくらいやつという扱いになる。少数派だからと言って卑屈になる必要もない。私たちがこれからやらなければいけないことは、この日本文化に根差しながら、それをどうやって異なる文化を持つ人に説明していけるか。こういう能力がこれから必要になる。そのために、この対話の能力が必要です。
ここで言語学の世界に冗長率という言葉があります。冗長率というのは、あるセンテンス、あるパラグラフの中で意味伝達と関係ない言葉がどれくらい入っているかという統計です。当然、会話が冗長率高くなると思われますが、意外と言語学的には冗長率は高くならないのです。いちばん冗長率低いのは長年連れ添った夫婦の会話。それから演説やスピーチも冗長率は低くなります。いちばん冗長率高くなるのは対話です。対話は異なる価値観のすり合わせなので時間がかかる。今まで私たちが受けてきた国語教育は冗長率を低くする方向で教えられてきました。きちんとしゃべる、無駄なことは言うな。書き言葉の教育ならこれでよかったのです。話し言葉はそうではないです。あの人は話がうまいなと思えるのは冗長率の低い人ではないのです。論理的にしゃべる人ではないのです。冗長率の切り替えがうまくできるかどうかがコミュニケーションのひとつの要素です。
最後に、僕は不登校の子と付き合うことがすごく多いんです。フリースクールで演劇を使っていただくことが多いのです。不登校の子っていうのはそれまでいい子だった子が多い。社会的にいい子だった。大体みな、いい子を演じるのに疲れたというんです。
大人はサラリーマンという自分、教員という自分、家に帰ったら夫という自分、親という自分、親と暮らしていれば子供という自分、マンションでの管理組合の役員の人、近所づきあい、趣味のフットサル、フォワードの自分、同窓会に出てきたら子供時代の自分の役割、いろんな社会的な役割りを演じながら、人生の時間を前へ前へ進めていく。そんなことみんなわかっているのに、子供には本当の自分を見つけなさいという。玉ねぎはどこからが皮でどこからが玉ねぎということはないわけです。皮の全体が玉ねぎを構成しています。人間もそんなもんです。こういうものを演劇や心理学の世界でペルソナといいます。仮面の意味を兼ね備えています。仮面の総体が人格を形成している。子供たちは仮面をかぶっている。昔は、学校での時間があって、無邪気に遊ぶ自分、甘えられる自分、しっかりしなけりゃいけない自分。こういうものを繰り返すことによって自分というものが形成されてきたのだと思う。今は学校の授業時間、部活、放課後、ずーっとラインでつながっていて、ひとつのキャラを演じ続けなければならない。これは疲れる。これをキャラ疲れという。これがひどくなると不登校や引きこもりになる。
要するに問題の本質は明らかです。演じるのが悪いのではなく、演じさせられてると感じた瞬間に仮面が重くなってしまう。だから僕は逆に、主体的に演じる人格を作っていくことが必要じゃないかと思います。私の友人で京大の総長をやってる山際寿一という人がいます。ゴリラの専門家です。ゴリラは親になると父親を演じるといいます。でも、妻に対する態度と子に対する態度が違うということはない。演じ分けることはしない。チンパンジーは群れ単位で行動する。ゴリラは家族単位で行動する、人間だけがその両方に所属する。人間だけが家族と群れという単位の両方に所属する。そのために私たちは演じ分けるという行為を生み出した。この能力が人間の複雑な社会を築く基盤になる。ですから演じ分けるという能力は人間を人間たらしめているもっとも重要な能力と考えられると思っていい。少なくとも教育の役割は、いい子を演じるのに疲れない子どもをつくる、できるならば、いい子を演じるのを楽しむぐらいのしたたかな、しなやかな子どもをつくる。それが今僕が取り組んでいる教育の目標です。私たちは常に現実の社会では、多様なさまざまな人々と関わりながら生きていかなくてはいけません。その時に最も重要な能力は、その時、その場に応じて、相手に応じてさまざまな人格を演じ分けて生きていく力をつける。そのことを演劇を通じてお伝えできればと思っております。       (文責 酒井忠昭)

平田オリザ氏講演会・討論会

例年の講演会に劇作家の平田オリザ氏をお招きし、201841日(日)国士舘大学梅ヶ丘校舎B304教室でご講演(新しいコミュニケーションの形)をお願いしました。この講演会の要旨を2回に分けて以下に掲載いたします。なお、講演会のあと参加者は6グループの分かれテーマ(対話とケア)に関する討論会を行いました。

 

「わかりあえないことからー新しいコミュニケーションの形」

 私の職場は、映画やオペラを作っています。一方、小中学校、大学でコミュニケーション教育を行っています。私が招聘されている大阪大学は京大や神戸大に比べて非常に硬いイメージの大学です。そこへ十数年前にコミュニケーションデザインセンターができました。当時、文部科学省から研究費が増大する中で科学者の説明責任能力をつけるために、大学にこの趣旨の施設を作りました。大阪大学の特徴は、劇作家、ダンスのプロデューサー、あるいはデザイナーも雇用して科学者や医者の卵たちに演劇やダンスやデザインを経験してもらってコミュニケーション能力やデザイン力をつけようとする狙いでした。当時の鷲田清一総長の意向として少なくとも博士課程に進む人間にはこれらの授業を必修にしていこうとし、プログラム作りをしました。したがって数年もすると演劇をやらないと医者になれないという素晴らしい時代が来るのですが、あまり演技のうまい医者も信用できませんので、そこそこにしておいた方がよいと思います。いま世の中では、コミュニケーション能力がヒステリックなほどに言われています。今日のお話は、そこで言われているコミュニケーション能力とはどういうものなのかをお話したいと思います。

 

電車の中で、二人の知り合いがいて、そこにもう一人が入ってきて、「旅行ですか」と声をかける。そういうシナリオを使います。これは簡単そうで、意外と日本の高校生や大学生には、むずかしいんですね。AさんとBさんがいてCさんがここに入ってきて、「旅行ですか」と声をかける。高校生は妙に馴れ馴れしくなって「旅行ですか」と軽いノリで言ったり、逆にすごく一生懸命になって「旅行ですか」と力んで低く重たい調子で聞いたりするんです。

 

ずっと以前からこういう仕事をしていますが、最初のうちなぜうまくいかないのかよく分かりませんでした。高校生にどうしてうまくいかないのかと聞くと「いや、自分たちは初めて会った人に話したことないから」。誰でも最初は初対面だと思いますが、高校生は他人との接触は少ないのです。そのうちにカルチャーセンターなどでも教えるようになると、社会人の中でも苦手な方が多い。中高年の男性では、席の決まった宴会ならいいけれど、カクテルパーティーは苦手という人はいます。まず、名刺を出して「なんとか商社の○○です」と自己紹介して、あとは野球の話くらいして、今年の巨人は……、話がなくなると皆だんだん壁の方へ下がっていく。みな苦手なんだなと分かってきました。それ以来、参加者に聞くようにしています、今日も皆さんにおうかがいします。海外へ行く飛行機の中などをイメージしてみてください。お隣りに知らない人が座っている、その時に自分から話しかけるという人は手を挙げてみてください。今日は大体二割くらい。さすが積極的な集まりですね。大体、全国平均は一割です。大阪だけちょっと上がる。じゃあ、自分から話しかけないという方はどのくらいいらっしゃいますか。こっちのほうが多いですね。半分以上のかたがそうですね。じゃあ、場合によるというかたは?。「共通の話題がありそうな感じの方」「なんとなく話せそうな感じの方」。話しかける時のAさんの体調もありますね。落ち込んでいるときには話しかけないでしょう。やはり、相手によるということですね。話しかけると手を挙げたかたでも、相手が怖そうな人ならしません。刺青が見えていたりすると話しかけない。

 

一方で、話しかけないというほうへ多くの方が手を挙げました。Cさんが赤ん坊を抱いていて、じゃれついてきたりすると、何か言います。かわいいですねとか、かわいくなくても何か言わないとこっちが怖い人と思われるかもしれませんから。相手によるわけです。全く同じワークショップをオーストラリアの大学で、どんな場合に話しかけますかと学生たちに聞きました。すると「人種や民族による」という答えが返ってきました。ああ、やっぱりワークショップはいろんなところでやってみるものだなと思いました。ただ、主体はAさんのほうなのです。Aさんがイギリスの上流階級の教育を受けた男性だったらば話しかけない、イギリスの上流階級では人から紹介されない限り話しかけてはいけないというマナーがある。ご経験あるかたがいらっしゃると思いますが、アメリカやオーストラリアでは話しかけてくるんです。アメリカでホテルに泊まってエレベーターに他人と乗り合わせて無言ということはないですね。日本人はあまり話しかけない。じゃあ、エレベーターで話しかけるアメリカ人はたいへんコミュニケーション能力が高くて、話しかけない日本人はコミュニケーション能力のない駄目な民族なのか。そういう話でもないと思います。これは文化の違いです。アメリカという多民族国家は、いろんな人が狭い空間に閉じ込められると早く自分が相手に対して、敵意を持っていないということを声や形にしてはっきりと示さないとストレス、緊張感が高まってしまう社会なのですね。アメリカでは話しかけてくる。でも同じ英語を使うイギリスでは話しかけたら失礼になる。それらを全部覚えておくのではなく。あらかじめ謙虚になって新しい文化、異文化に対して、謙虚になって取り組むということを学ぶことのほうが、グローバルコミュニケーションスキルというものに近づけるということではないかと思います

 

日本語はちょっと話しかけにくい言語です。日本語、韓国語には敬語がある。相手との関係が分からないとどんなふうに話しかけていいか決まらない。特に韓国語は年齢により敬語が厳しいです。一つ年上でも敬語で話しかけねばならない。韓国語は年齢で全部決まります。私たち日本人は同世代の人と初対面で会うのに、韓国では困る。年齢を間違うと失礼なことになる。しかし言語はうまくしたもので韓国語の会話では相当初めの段階で年齢を聞きます。挨拶の次に何年生まれですかと聞く。女性には聞きにくいですね。話しかける行為一つとってもお国柄とか文化の違い国民性とか民族性とか現れてきます。

 

たとえば、アイルランドという国では、気さくな人で、パブでビールを飲んでるといきなり話しかけてくる。「旅行ですか」といセリフ、アイルランド人だったらみんなに話しかけるんです。フィリピンから来た留学生に聞いたらこのシチュエーションでは話しかけなかったら失礼になる、20パーセントは話しかける。イタリアからの留学生に聞いたら、相手は女性だったら、100パーセント話しかける、話しかけなかったら失礼になる。日本人は一割しか話しかけない。

 

さてAさんがイギリスの上流階級の教育を受け男性だとすると今度は話しかけてはいけないはずなんです。マナーとして。でも台本には、「旅行ですか」と書いてある。ということは、作家は何か別のメッセージをそこに込めていることがある。どんなメッセージが考えられますか。 たとえばCさんが美しかった、Aさんがスパイ、Aさんが自分の身分が嫌で放浪の旅に出てきた、庶民をアピールしたい、いろんな答えが出てきた。

 

さて、話し言葉の個性というもの、先ほど話した、話しかけるか、話しかけないか、一人一人の個性です。それから、言葉から受けるイメージも人それぞれ、さまざまです。こういうものを言語学の世界では、コンテクストといいます。コンテクストは文脈という意味ですが、ここではもう少し広い意味でその人がどんなつもりでその言葉を使っているのかを考えます。俳優には俳優のコンテクストがあります。劇作家には劇作家のコンテクストがある。これが重なればそんなに苦労はしないのですが、そうかんたんではない、別々の人間だからです。今話題になっている「旅行ですか」は簡単なセリフですね。ところが高校生にはうまく言えない、うまく言えなくて当然なのです。高校生に聞くと95パーセントは話しかけないということです。普段使ってない言葉で、これをコンテクストのずれという。このコンテクストのずれは、コンテクストの違いよりもコミュニケーションの落とし穴になりやすいのじゃないか。ではこの違いというのは何でしょう。要するに文化的な背景が違って、この断絶の方に、私たちは気を使っているのではないか。たとえばチェーホフさんは百年前のロシアに生きていた作家です。百年前のロシアが舞台になってますから、今の私たちに分からない意味のセリフがでてきます。「銀のサモワールでお茶を入れて」という言うセリフが出てきます。ロシアの家庭にはどこにでもサモワールというお茶を入れるツボみたいなものがある、ロシア文学には必ず出てきます。ツルゲーネフにもドストエフスキーにも出てきますが、日本人には全く馴染みがない、昔の新劇の方はまじめだったので分からないことがあると百科事典を調べたり、ロシア料理店へ行って調べたり、触らせてもらったりして、サモワールがさもあるように演じた。これが昔のリアリズム演劇の考え方です。私たちのような小劇場とかアングラ出身の人間はわからないセリフは早口でとか大声でいうとか、ごまかすのですが、考えてる。考えるというのが言い過ぎとすれば、壁は意識しているわけです。「旅行ですか」は考えないでしょう。旅行ですかってどういう意味かとか、どういえばいいのとか考えないですね。考えないでツルッと言っちゃうから失敗する。演劇はいずれにしても他人が書いた言葉をどうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術ですから、「サモワール」も「旅行ですか」も同じように難しいはずなのです。他人が書いた言葉ですから。でもその難しさに気が付かない分、「旅行ですか」のほうに落とし穴があるのではないか。これは異文化理解でもこういうことがあって、日韓、日露なんかもここ数年ずうっとぎくしゃくしてるわけなのですが、世界中どこ見ても隣同士仲悪いですね。ひとつには文化が近すぎこともあると思います。私たちは靴を脱いで他人の家に上がるときに脱いだら揃えて反転させて上がりますね。韓国のかた結構嫌がる方いらっしゃるんですね。韓国のかたからするとそんなに早く帰りたいのかと思うそうですね。これは靴を脱いで家に上がる文化を共有していることから起こる摩擦です。みなさんも欧米のかたを家に招くことがあると思いますが、まず「ここで靴を脱いでください」から始まるわけです。言わなければそのまま上がるわけですから。しかもほぼ100%脱ぎ散らかします。揃える、まして反転させる文化は日本固有の文化です。あれを美しいと思うのは私たちだけです。私日本人ですから。でもそれを他者に強要できるほどの客観合理性はありません。文化は固有のもので固有の価値観がある。この習慣を「美しいに決まっている」となるともう思考停止です。「決まって」はいません。世界中の70億の残り69億人は別にそう思っていません。これが誰にとっても便利だ、誰にとってもカッコイイと客観合理性を持てると文化ではなく文明になって広がっていく、国境を越えて。しかし日本文化は文明にはならない。もう一つの問題はです、欧米の人たちが脱ぎ散らかした時に揃えてあげますね。そのときあんまり不愉快にならない。それは欧米の人に対するコンプレックスではなくて彼らがそのマナーを知らないということを知っているからです。しようがないな、と。ところがなまじ靴を脱いで家に上がるという文化を共有していると、当然相手も同じ行動をとると思ってしまう、そして同じ行動をとらないとそこに悪意があるように見えたり野蛮に見えたりしてしまう。そこに近い文化と付き合う時のむずかしさがある。だから若い世代にたくさん交流してもらって、やっぱり違いなんだよねという認識から出発しないとこの問題は解決しません。

 

(以下は次号に掲載します。文責 酒井)

山崎章郎氏講演会・討論会

本年の全体テーマは「ケアと対話」~豊かな晩年を彩る~とし、20161126日(土)国士舘大学梅ヶ丘校舎で行われました。前半の講演は、「スピリチュアルケアの核心」というタイトルで、コミュニティをベースに在宅ホスピス医として活躍をしておられる山崎章郎先生(東京都 小平ケアタウンクリニック院長)にお願いしました。

 

キーワード:スピリチュアルペインとスピリチュアリティのつながり・真の拠り所となる他者の存在・傾聴の意味と深さ(苦悩・苦しみを受けとめるということ)

 

1.<人生を変えた本と人物との出会い>

 

外科医をしていた1983年、南極観測船に乗る船医として航海中、一冊の本に出会った。

アメリカの精神科医、エリザベス・キュープラー・ロスの著した『死ぬ瞬間』という本であり、終末期医療の考え方に大きな一石を投じることとなった。5年後、直接ご本人と会い話を聞く機会に恵まれた。人の苦痛(全人的苦痛)を4つに分けて、①身体的苦痛②社会的苦痛③心理的苦痛④スピリチュアルな苦痛の図で説明がなされた。当時、通訳はスピリチュアルを宗教的と訳したが、腑に落ちたわけではない。彼女は、次のように語った。上記の身体的・社会的・心理的な痛みにきちんと向き合えば、スピリチュアルな痛み(ペイン)は自然と癒されていくものであること、また、患者が人生の最終の局面で、苦しみやつらさの果てに安楽死などの願望を出すのは、「皆さんたちのケアが足りないからです」とのことばであった。このことばをその後の臨床のなかで問い続けている。

 

2.<スピリチュアルな痛みとは> 普遍性をもつ定義の試み

 

緩和ケアの臨床における、患者のスピリチュアルペインについて、村田久行氏は、次のように説明している。「スピリチュアルペインとは、自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛」とし、これは、終末期がん患者のさまざまな苦しみのあり様や状況にもとづくものである。たとえば、人生の意味の喪失・目的の喪失や、衰弱による活動能力の低下や依存の増大、自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性、孤独、希望のなさ、といったものである。しかし、こうした状況は、終末期のがん患者だけのものではなく、より普遍化できないかと考え、次のように考えた。「スピリチュアルペインとは、その状況における自己のあり様が肯定できない状態から生じる苦痛」であると。すると以下のような疑問がでる。それは、この村田氏が示した具体的な状況をなぜ「スピリチュアルペイン」と呼ぶかである。身体的な苦痛が生じるのは、前提として身体があるように、その前提として人間にスピリチュアルなものがあり、そこが脅かされることによって、スピリチュアルな痛みが生じるのではないかとの仮説をたてた。

 

3.スピリチュアリティ(スピリチュアルなもの)とは何か

 

さきほどの村田氏の説明「スピリチュアルペインとは、その状況における自己のあり様が肯定できない状態から生じる苦痛である」をもとにして、二つのことを考えてみたい。一つは、「自己のあり様」の「自己とは」ということである。自己は、他者との関係において、現実化される。あるいは、自己の存在と意味は、他者との関係のなかで与えられる。すなわち、「自己は他者との関係がなければ存在しない」といえる。先の説明に加えて「スピリチュアルペインとは、その状況における自己と他者との関係のあり様が肯定できない状態から生じる苦痛」とすると、より明確になってくる。

 

二つ目は、「他者とは」何を示すかということである。人々(家族をはじめ、まわりで関わる人たち)そして、自分の存在に不可欠な、拠り所となる大切なもの(自然・哲学・宗教・芸術など)を想定する。ある状況が、自己にとって肯定できる状態なのか、そうでないのかは、その時の他者との関係性によっている。したがって、他者との関係性が苦しく自分のあり様を肯定できないのであれば、関係性を見直し、自己のあり様を肯定できるような他者を求めることになる。再び説明し直すと、「スピリチュアルペインとは、その状況における真に拠り所となる他者の不在によって生じる状態、すなわち、その状況における自己と他者との関係性のあり様が肯定できないことによって生じる苦痛」となる。逆に「スピリチュアルペインのない状態とは、真に拠り所となる他者がいて、その他者との関係性を通して、どのような状況でも自己のあり様が肯定できている状態」といえる。

 

スピリチュアリティを考えるにあたり、人間の本質、特性について記したい。人は、その誕生から死に至るまで、生まれ、生き、死んでいくことを可能な限り肯定したいのではないか。それが人間らしいのであり、人間の特性と思われる。こうした人間の特性(本質)を念頭に、再説明すると「スピリチュアリティとは、どのような状況でも自己と他者との関係性のあり様を肯定しようとする人間の中核的特性である。ただし、その特性を発揮するためには、真に拠り所となる他者が必要である」といえる。また別のいい方をすると、「スピリチュアルペインとは、真に拠り所となる他者の不在の結果、スピリチュアリティが適切に、その特性を発揮できず、その状況における自己と 他者との関係性のあり様が肯定できないことから生じる苦痛」となり、ここで両者がつながりをもつことになる。

 

4.スピリチュアリティの位置とスピリチュアルケア

 

人間を超えたものに問いかけるスピリチュアルな次元(スピリチュアリティ)は、日常生活の中で覆い隠されている(村田久行氏)という説明、藤井美和氏による「スピリチュアリティは、人間存在に意味を与える根源的領域にある」との説明を引用して、次のような図を描くことができる。

 

 

スピリチュアルケアの大事な点は、スピリチュアルな痛みへのケアというよりは危機が深まるにつれて「自己のあり様を肯定しようと願う」人間の特性を理解して支援するこることである。そのための真の拠りどころとなる他者が必要である。

 

 

 

5.真に拠り所となる他者になるために(傾聴の意味と目的)

 

人が苦しい困難な状況(自己のあり様が肯定できない状態)にあり、その現実が変えられないとすれば、別の対処の仕方を考えなければならない。苦しい思いを語りつくすことがひとつの方法だろう。語る過程では、その語りをひたすら聴き、理解してくれる聴き手が必要である。語り手はその過程で、自分の思いが明確になり、苦しい事柄の新しい意味に出会う。そのことは、聴き手が真 の拠り所となる他者であったとき可能になる。

 

苦悩する話し手にとっては、共感し、適切に傾聴する聴き手は、真に拠り所となる他者になる。話し手は、傾聴する聴き手との関係を通して考えを変容させ、その状況における自己を肯定することが可能になる。すなわち、理論にもとづいた適切な傾聴は、スピリチュアルケアになりうるのである。

 

6.「真の拠り所」となるためには、傾聴だけでは不十分である

 

冒頭、キュープラー・ロスのことばを問題提起とした。全人的苦痛という4つの要素の身体的苦痛、社会的苦痛、心理的苦痛にしっかりと向き合えば、スピリチュアルな苦痛は、おのずと癒されるといった。聞き手が相手の思いをしっかり受けとめることによって、置かれている状況と他者との関係性を肯定しようとする人間の特性が回復してくる。困難を一つひとつ解決しようとする。解決できなかったとしても、それを受けとめ、その人の残っている力をサポートする。傾聴だけでなく、先の3つの苦痛にむきあうことによって、傾聴はさらに意味をもつ。

 

7.2つのエピソードから

 

○ 50代の乳がんの女性:治療を自ら拒否して、がんの末期の状態となり、ホスピスに入院、下半身のマヒ、おむつの状態となる。自らの判断で病気を放置、治療を拒否した方であったため、「死」を受け容れていると思っていた。ある日の回診時、「まだ死にたくありません」と語った。「なぜですか」と問うた。「ホスピスで、自分のことを大切に思ってくれ、大事にしてくれるスタッフやボランティアに出会い、こうした人たちともう少し時間をともにしたい」という。彼らの存在や関わりは、困難な状況の中で生きる彼女に生きる意味、生きたいと思う意志を呼び覚ましたのかもしれない。

 

○70代の男性:治療の限界から在宅となり、耳は聞こえず、両方の視力も次第に失っていった。聴診器を手で触ってもらったり、手のひらに文字 を書いて、コミュニケーションをとろうとしたが、無力感を感じていた。ある日、その方の奥さんがご主人のベッドで、身体全体を、思いを込めてマッサージをしたという。ご主人は、「久しぶりに安らかな気持ちになった」という。傾聴の有無にかかわらず、本当の拠り所というのは、全身全霊を込めて患者さんに向き合っていくこと、そのとき、自分のなかで、人が人として生きるスピリチュアリティは拠り所となる他者の愛によって動き出す。

 

最後に・・・人は、誰でもその思いを受けとめる真に拠り所となる他者が存在すれば、その他者との関係性を通して、どのような状況でも、自己のあり様を肯定し、人間らしく生きていこうとする人間としての中核的「特性」を持っている。その特性をスピリチュアリティという。

(文責 石井三智子)