第1回の公開型音楽療法を4月18日に開きます。
14:00 - 15:30 代田区民センター地下1階の音楽室
申込みは土川まで 090-4423-3947
第1回の公開型音楽療法を4月18日に開きます。
14:00 - 15:30 代田区民センター地下1階の音楽室
申込みは土川まで 090-4423-3947
コミュニティ音楽療法ームーンリバーの会は東京・新代田の「まもりやまテラス」で開催しています。
原則的に ムーンリバーの会: 毎月第2火曜日、個別型:毎月第4火曜日 (12時40分から14時20分まで)(14:00~15:30まで)ですが、会場の抽選に当たった時のみ実施します。その月初めに、ホームページでお知らせします。会場を確認してください。
・会費 1,000円
・年齢、性別を問わず参加いただけます。(介護されている方、男性は、特に歓迎です。)
・音楽療法の内容は、当協会のセラピストのプログラムに添いますが―やりながら皆様と 作り上げていきましょう。(歌唱・リハビリ ・ヨガ・ボイストレーニング・ダンス・ 楽器演奏などもあります)
・送迎が必要な方は、御相談にのります。
・音楽療法士 丸山ひろ子先生
・参加ご希望の方は担当の土川の携帯まで。(090-4423-3947)
古代の医学全書-『医心方』「世界記憶遺産」登録をめざして
支援者 野村彰男
私は先ごろ、現存する日本最古の医学全書である『医心方』を、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録しようという運動の発起人のひとりに名を連ねることになりました。10月には衆参の医師会系議員や横倉医師会長、医学者らも参加して、衆院議員会館で登録推進をめざす議員連盟の設立総会も開かれました。
『医心方』は、丹波康頼という宮廷医が漢訳された多くの中国医書等からまとめあげ984年に朝廷に献上した全30巻からなる医学全書で、国宝です。丹波康頼が参考にした中国の薬物に関する本草書や養生書、鍼灸などに加え、道教や儒教、易経といった宗教や哲学にまでいたる広範な文献二百数十の文献は、難解な文字と古漢文、さらに万葉仮名が使われ、薬剤の原料とされた植物、鉱物などの産地は、アジア全域からユーラシア等にも及ぶといいます。この書が世間に知られるようになったのは、菊池寛賞やエイボン功績賞などを受賞している作家・槇佐知子さん(85)が、心血を注いで現代語訳に挑み、30巻、全33冊の全集として筑摩書房からの出版にこぎつけたからです。槇さんは作家活動を続けるなかで、日本の古典文学でもっとも多様な文字が使われている『今昔物語』を繰り返し読み、『万葉集』を万葉仮名で読んでいたことから、『医心方』に出合ったとき「あまり抵抗なく読めた」といいます。とはいえ、難解な医書を訳すために、独自な文字を繰り返し整理して、何千字という部首字書を自分で作って解読を進めたという、半生をかけた努力の結晶なのです。 医学にはまったく門外漢の私がこの運動に関わることになったのは、その槇さんが、私と同じ静岡県相良町(現牧之原市)の出身で、小学校1年のときの担任がたまたま私の母だった、という縁からなのです。私より10歳ほど年上の槇さんは、母の先生ぶりをなつかしがり、朝日新聞で記者をしていた私ともしばらく前から賀状のやりとりなどをするようになりました。電話で話したこともありましたが、実際に会ったのは発起人会をつくる集まりのときが初めてでした。いまでは医学関係者や一般人を対象に『医心方』に関する講演をこなす槇さんですが、もともと医学を学んだ人ではありませんから、その現代語訳には医学研究者の中からは冷ややかな声が出たこともあったようです。しかし、それにめげず解読作業を最後までやりとげた彼女の強さ、千年余り前の「人間の心と体に関するあらゆる知識を結集させた」貴重な文化遺産の存在と価値を現代人に分かってもらおうとする、その精神力には頭が下がります。 槇さんは自分が病気やけがをすると、ときに『医心方』で説かれている処方を実践してもみるそうです。それだけでなく、天皇、皇后両陛下にも献上し、関心をもたれた美智子さまに招かれて、『医心方』をめぐる話し交わしたこともあるとのこと。海外では「ベートーベンの『第九』」の楽譜や「アンネ・フランクの日記」などが記憶遺産に登録され、日本でも藤原道長の日記『御堂関白記』や、1945年から1956年にわたるシベリア抑留日本人の本国引き揚げの記録などがすでに登録済みです。『医心方』登録までの道のりは手間がかかり、こちらの活動はようやく一歩を踏み出したばかりですが、槇さんのためにも、早く実を結んでほしいと願っています。
お祖母(ばあ)ちゃんの心を伝える
ピアニスト セイダ・R・鈴木
私はセイダ、75歳になります。カリブ海で最大の島のキューバで生まれました。小さい時世界で一番好きな人はアブエラ・ブランキータでした。アブエラは母の母国のスペイン語でお祖母(ばあ)ちゃんのことです。アブエラ・ブランキータは親のいない子供で、小さい頃、1年だけピアノを習い、貴族のサロンで美しいピアノ曲を1時間演奏しました。当時、ラジオもテレビもない時代でした。私の未来のお祖父(じい)ちゃんは音楽が大好きで、コモ湖出身、キューバに派遣された最初のイタリア領事でした。お祖父(じい)ちゃんはアブエラの心をつかみ16歳のとき結婚しました。子供が8人でき、私の父は8番目です。
私が生まれたとき、アブエラ・ブランキータは70歳の未亡人でした。隣に住んでいたので私は毎日会っていました。美味しいご馳走を作り、笑わすお話をしてくれ、驚くほどの達筆で詩を書き、とても楽しいカードゲームをしてくれました。なかでも一番はピアノを弾いてくれることでした。
ある日、突然ピアノを弾く手をとめ、夕飯のシチューをかき回さなくっちゃ、と云って立ち上がりました。お祖母(ばあ)ちゃんが台所に行ったあと、私はピアノの椅子によじ登り、お祖母(ばあ)ちゃんの弾きかけの曲を弾き終えました。そのときがピアノの弾き始めで、話ではまだ3歳になっていませんでした。
数カ月後、私はちゃんとしたピアノレッスンを受け、音楽の勉強を始めました。3年後、6歳のときハバナ市の音楽学校に入り、12歳でピアノと音楽理論の学位をとって卒業しました。16歳のときカーティス音楽院のルドルフ・ゼルキンの指導許可を得て、アメリカのフィラデルフィアに渡りました。1960年、勉強を始めて最初の夏休みにキューバに帰ったとき、まずしたことは86歳になるお祖母(ばあ)ちゃんを尋ねることでした。キューバの習慣にしたがって私たちは抱き合い、キスをしましたが、彼女は私にピアノを弾いてくれといいました。お祖母(ばあ)ちゃんは、左手の使い方が上手いと褒めてくれました。私たちは音楽がどんなに慰めになり、楽しく、平穏で、純粋なものかと話し合いました。それから私はお祖母(ばあ)ちゃんにピアノを弾くように頼みました。彼女は優美に弾きはじめましたが、椅子のとなりに坐っている私にゆっくりと寄りかかるようになり、私の腕のなかで亡くなりました。顔には笑みが浮かんでいました。
1964年、私の夫の鈴木秀太郎とともに日本で演奏活動を始めて以来、私は夫の小学校、中学校の同窓会のメンバーとして会に参加することを認められました。これは日本では例外的なことで、光栄なことだと深く感謝しています。それ以上に、このことは私がキューバに残している親しい学友たちと離れている心の空白を埋めてくれます。
夫の秀太郎のよい友人のひとりは酒井医師です。彼は「心の専門家」で、秀太郎と私が、アブエラ・ブランキータがしたように、仲間を悦ばせ、慰め、癒し、力づける音楽を演奏することをよく理解しています。1994年6月、駒込病院の演奏会では、私たちはヴァイオリンとピアノで末期がんの患者、彼らの家族、看護師、医師ら、参加した400人に愛を届けました。音楽を聴くうちに皆さんの顔がだんだんと穏やか変わるのは、大きな悦びでした。確か、東京やそのほかの病院で6,7回演奏会をしたと思います。よく覚えているのは、看護師の大須賀さんにとても難しい曲の譜めくりをしていただいたことです。
それ以来、原発災害で避難を余儀なくされた子供たちのためのチャリティコンサート(銀座王子ホール、2016年)、NPOコンサート(世田谷区、2017、2018年)など、定期的な音楽の悦びの配達を、夫と一緒に心をこめて続けています。
皆で、私たちの世界がずっとしっかり繋がり、お互いに支え合い、少しでも寂しくない場所になるように、歌い続け、音楽を抱き続けましょう。
<セイダさんの原文>
My name is Zeyda. 75 years ago, I was born in Cuba, the largest island of the Caribbean Sea. When I was a little girl, my favorite person in the world was my Abuela Blanquita. Abuela is grandmother in Spanish, my mother tongue.
Abuela Blanquita was an orphan at a young age and studied the piano for one year only, learning one hour of charming piano pieces that she played in aristocratic salons in Havana, at a time when there was no radio or television. My future grandfather, a music lover from Lake Como and the first Italian Consul in Cuba, won her heart and married her when she was 16. They had 8 children and my father was the eighth.
By the time I was born, Abuela Blanquita was a 70-year-old widow. Since she lived next door to our house, I could visit her every day. Besides making delicious food for me, she would tell me stories that made me laugh, write poetry in her elegant handwriting that amazed me, and teach me card games that were so much fun. Best of all, she would play the piano for me.
One day, Abuela Blanquita suddenly stopped playing and told me she had to stir the stew she was cooking for dinner. While she was in the kitchen, I climbed up on the piano bench and finished the piece she had been playing. So that is when I started to play the piano, by ear and not yet three years old.
A few months later, I formally started taking piano lessons and learned how to read music. Three years later, at age 6, I entered Havana’s Municipal Conservatory, graduating at age 12 with diplomas in piano and music theory. At age 16, I was accepted to study with Rudolf Serkin at the Curtis Institute of Music, and I moved to Philadelphia in the United States.
When I returned to Cuba after my first year of studies for summer vacation in 1960, the first thing I did was to visit Abuela Blanquita. She was 86 years old. We embraced and kissed as it is customary in Cuba, and she asked me to play for her. She congratulated me for improving my left hand technique. We talked about how music consoles and rejoices as well as gives peace and sanity. I then asked her to play for me, and as she was gracefully doing so, she gently leaned towards me, who was sitting on a chair next to the piano bench, and she died in my arms with a smile on her face.
Since my husband Hidetarō Suzuki and I began performing together in Japan in 1964, I have been privileged to participate in his primary and middle school class reunions as an “adopted” member, which was, and perhaps still is, out of the norm in Japan, and I was deeply moved by this honor. Beyond that, it has filled a void in my life as I was separated from my own dear classmates when I left Cuba.
One of Hidetarō ‘s wonderful classmates is Dr. Tadaaki Sakai. A heart specialist, he truly has a heart of gold! He is a very sensitive person and he realized keenly that Hidetarō and I play our music like Abuela Blanquita did: to cheer, to console, to heal, and to strengthen our fellow human beings.
Dr. Sakai first invited us to play at Tokyo’s Komagome Hospital in June 1994. It was a concert communicating our love through violin and piano music to the terminally ill patients and their families, nurses, and doctors. 400 people attended. It was the greatest joy to see their faces transformed as they heard the music.
I believe we played six or seven more concerts in hospitals in Tōkyō and elsewhere. One clear memory is Nurse Osuna expertly turning pages for me in a particularly difficult program!
Since then, we have regularly collaborated with our full hearts on inspired projects that Dr. Sakai led, including the benefit concert for Fukushima children displaced by the nuclear plant explosion ( at Ginza’s Ōji Hall on March 11th, 2016), and NPO concerts in October 2017 and 2018 in Setagaya-ku.
Let us all continue singing and making music so that our our world is a more connected, more supportive, and less lonely place.
-Zeyda Ruga Suzuki
2018年4月1日、平田オリザ氏をお招きし、国士舘大学梅ヶ丘校舎で行った講演会の記録(1)の続きです
さて、チェーホフは百年前ですけれど、もっと最近の事例でいえばテネシー・ウイリアムという作家がいます。これは20世紀のアメリカを代表する作家で1950年代に初めて日本に紹介されました。そのなかで、「ボウリングに行こうよ」というセリフがあります。ところが1950年代ですから日本の俳優たちもボウリングを知らなかった。辞書で調べて、どうやらボウリングは鉄の玉で棒を倒す遊びらしいと意味はかろうじて分かりました。しかしボウリングのイメージはつかめない。ましてボウリングに行こうというセリフのコンテクストは全くつかめません。いま皆さんはボウリングに行こうよというセリフを大体どんなときに使うかイメージできますね。初対面のひとに、つかぬことをお伺いしますが今日ボウリングに行きませんかとは言わないですね。18歳の少年が17歳の少女をデイトに誘う時に、「今日ちょっと将棋ささない」とはいわないですよね。
僕は大阪大学の大学院の理系の学生にクイズを出します。小学校一年生の子が、嬉しそうに学校から走って帰ってきます。「お母さん、お母さん今日、ぼく、宿題やっていかなかったんだけれど、平田先生全然怒んなかったんだよ」と言ったとします。さあ、皆さんがお母さんだとしたらどう答えますか。「よかったわね」 「ダメな先生ね」 「よかったね」 コンピューターの話を先にします。コンピューターにこの文章をインプットすると主に二つの情報が伝わります。ひとつは宿題をやらない、もうひとつは、にもかかわらず怒られない。大方のコンピューターは基本的に過去の蓄積からしか答えが出せない。宿題やらなかったのには、宿題やらなきゃダメときびしくいう、にもかかわらず怒られなかったことに対してはよかったね、もうかったねという答えが返ってきます。でも子供が本当にお父さんお母さんに伝えたかったことは何ですか。嬉しそうに走って帰ってきて、宿題やらなくても怒られなくてもうかっちゃったということを伝えたいという小学生はあんまりいないのです。多分、いちばん伝えたかったのは、平田先生大好き、平田先生やさしい、平田先生のクラスでよかったという気持ちを伝えたかった。そう考えないと、嬉しそうに走って帰ってきたこの部分との整合性がつかない。いいコミュニケーションとは基本的に子供のコンテクストを受け止めてさらに受け止めているということをシグナルとして返してあげるというのがいいコミュニケーションと言われています。子育てとか教育に一般的な解答はないのですが、クイズに答えをつけるとすれば、「ああ、平田先生やさしいね、でも明日はおこられるかもよ」ということがいいかもしれない。ですから「ダメな先生だね」というのはいい答えかもしれない。先生に言及したということでは。すると子供は「そんなことないよ」と会話のチャンスが生まれる。今その子は宿題の話をするつもりは全くないのです。平田先生の話をしてるのです。宿題の話を先にしたら子供はきょとんとしちゃいます。これを繰り返されると、「あ、このおとな、全然自分の言うことをきいてくれないよ」と思ってしまう。
あるいはこういう話もあります。先ほども名前が出ました鷲田清一前大阪大学総長ですね。本職は哲学者ですけれども。彼の著作によく出てくる例で、患者さんが胸が痛いですといえば、すぐ先生を呼んできますという看護師さん、これはだめですね。ふつう看護師さんは、患者さんが胸が痛いというと、どう痛いのですか、いつからですか、と聞きます。ところがコミュニケーション能力の高いといわれる看護師さんは、「ああ、胸が痛いのですね」とおうむ返しにこたえる。要するに「はい、自分はあなたに集中していますよ」「忙しく見えたかもしれないけれど、今はあなたの言うことを全面的に聞いています」ということをシグナルとして出している。患者さんのパニックを抑える。こういう看護師さんは暗黙知をもっていると言われています。こういう話もあります。ホスピスで末期がんの50代男性の患者さんがいます。余命半年と宣告されています。奥さんがつきっきりで看護している。ある解熱剤を投与するのですがこれがなかなか効かない。奥さんが「なんでこの薬を使うのですか」というわけです。そうするとホスピスに集められている優秀な看護師さんたちですから「副作用もなくいい薬ですよ」とやさしく説明します。奥さんその場では納得するのですが、翌日になるとまた同じ質問をする。また一生懸命説明する、答える、これが毎日繰り返される。いくら優秀な方たちでも人の子ですから嫌気がさしてきますね。ナースステーションでも話題になる。ところがある日、ベテランのお医者さんが回診したときに、やはりこの奥さんは何でこの薬を使うのですかと聞いたのです。そのお医者さんはひと言も薬の説明をせずに「奥さん辛いね」と言ったのですね。奥さんその場では泣き崩れたのだけれども、もう二度とその質問はしなくなった。要するにその奥さんが聞きたかったことは薬の効用ではなかったということですね。「なぜ自分の夫だけががんで死んで行かなければいけないのか」という問いかけを誰かに訴えたかった。その問いかけへの答えを近代科学はもっていません。奥さん辛いねと言ったところで、がんは治るかというと治りません。ホスピスはご承知のようにがんを治す機関ではありませんね。治らない患者さんと家族の方に残り半年間を有意義に過ごしてもらうための機関なわけです。だとすればその患者さんやご家族がどう生きたいのかをくみ取れなければ治療には当たれないわけです。皆さんはその現場にいらっしゃるので釈迦に説法ですが、余命半年といわれて、船の旅に出たいですと、論理的にしゃべってくださる患者さん、ご家族は稀であって、泣いたり喚いたりパニック状態になったり、どうしてこの薬使うんですかと逆切れされたりするわけです。その中からコンテクストをくみ取らないと治療にはあたれない。大変な仕事ですね。
実際にわたし、10年前に大阪大学によばれたときに、医学部出身の副学長から、コンピューターでは読み取りことのできない、患者さんのコンテクストでの複雑な気持ちをくみ取れるような医者や看護師を育てたいというので、劇作家であるあなたを呼びましたと、言われました。そういう時代にもうなってきたということかなと思います。
大阪大学の大学院なんかにおりますと、さっき申し上げたグローバルコミュニケーションに、もうひとつリーダ-シップ教育を考えます。これは人を引っ張っていく力とかディベートに強いとか、クリティカルシンキングとか、まあ国際社会では大事だと思いますが、さらにもうひとつ日本のリーダーに必要なのは、患者さんとか子供とか高齢者とか社会的弱者のコンテクストを理解する能力ではないかと思います。論理的にしゃべる能力はもちろん必要ですが、論理的にしゃべれない人の気持ちをくみ取る能力が同じだけ必要ではないか。日本社会は少子高齢化、多額の借金のある国です。もう高度経済社会は望めません。これからの社会では社会的弱者のコンテクストを理解する能力の方が、人を引っ張っていくリーダーがより重要になっていくのではないか。少なくとも大阪大学としてはそういう社会的弱者を理解するリーダーを育てたいという教育方針なのです。
もう一度最初の「旅行ですか」にもどります。AさんがCさんに旅行ですかと話しかける。話しかけるのは全部Aさんの能力、努力にかかわってくるのでしょうか。現実の社会で、話しかけるかどうかは相手によるのです。すると話しかけられやすい演技って何ということになります。こういうものを「関係」としてとらえていこうとしたのが90年代に出てきた新しいコミュニケーション教育のあり方なのです。話しかけやすい関係になっているか。話しかけやすい場所作りができているのかということです。大阪大学のコミュニケーションセンターというのは、まさにこういう哲学、こういう思想で生まれた世界でも非常に珍しい教育方法です。私たちは説明のうまい医者や科学者を育成したいわけではないです。文科省はそれを育成しろとカリキュラムを作らせたのですが、私たちはそうではないのです。患者さんがお医者さんに質問しやすいような椅子の配置になってるかどうか、壁の色はどうか、天井の高さはどうか、受付から診察室までの道のりが患者さんを緊張させてないかどうか。これは全部デザインの問題です。あるいは医療過誤を起こしにくいような組織になっているか、事故が起きた時に下から上に情報が伝わるか。これは情報のデザインになります。さらにもっと広げていくと、病院の建物自体が患者さんを緊張させていないか。これは建築のデザインの問題です。あるいはもっと広げていくと病院は町のどこにあればいいのか、交通アクセスはなにがいいのか、交通行政、街づくりのデザインになる。患者さんがお医者さんに質問がしにくいのは、お医者さんが威張っているのではなくて患者さんがバスを3台も乗り継いできたから。原因がどこにあるか分からないこういう原因と結果を一直線に結び付けない考え方を学問の世界では複雑系と言います。コミュニケーションの問題をこの複雑系のなかでとらえるのがコミュニケーションデザイン、デザインするという考え方。あるいはコミュニケーションがうまくいっていない時にそれを個人の能力に帰すのではなく、デザインを疑ってみる。これがコミュニケーションデザインというものの考え方です。大阪大学は本当に社会に役に立つ学生を作ろう、本当に社会に役に立つ医者を作ろうというのが教育方針です。
じゃあ、実際のワークショップで何をやるかというと、例えばこの高校生のA君はなかなかうまく「旅行ですか」と言えない。高校生に、旅行ですかというセリフを言わせるのは難しいんです。どうしたらよいか。経験の浅い演出家、指導者ほど話しかける側の気持ちになって話しかけなさいと要求しがち。でも高校生はできない。話しかける時にその人の気持ちになってごらんという問いかけは、従来型学力のある、頭の回転の速い子、話しかけた経験のある子にしか通用しない。でも、「話しかけたことある?」「どんな時なら話しかける?」「相手がサッカーの雑誌をもっていたら話しかけるんじゃないの?」「サッカー好きなんだよね」という問いかけならば適用できるのです。これを教育学の世界ではエンパシー、シンパシー型の教育からエンパシー型の教育にといいます。私は,同情から共感へ、同一性から共有性へというふうに訳しています。
小中学校でよくいイジメのロールプレイをやるのですが、経験の浅い先生ほど、イジメられる子の気になってごらんというんです。イジメめられる子の気持ちがすぐわかるならイジメないですよ。日本のイジメ問題の深刻なのは、イジメてる子のイジメをしている意識が希薄なところが問題なのです。イジメてる気持ちがない子にイジメられてる子の気持ちになってごらんと言っても、その気のない子に分からないです。分からないからいじめてしまう。でも、いじめっ子の側にもほかの子から何かされて嫌だった経験はあるはずなのです。だから、ほら、1週間前、A君から何かされてイヤそうにしてた、さっきのBちゃんと似てるよ、と言うと、ちょっと会話の回路が開けてくる。もちろん小学生だったら100%反論するでしょうね。「いや、違うもん、1週間前のはAが絶対悪いもん、さっきおれは遊んでただけだもん」 でもそう言ってくれれば教員の側としてはチャンスです。「そうかな、先生から見たらすごく似てたけど。じゃあどこがちがうの。A君にとってのイジメとイジリと遊び、B君にとってのイジメとイジリと遊び、そして君にとってのイジメとイジリと遊び、がどこがどう違うんだろう」まさにコンテクストのズレからイジメが起こったわけですね。ある子のとってはイジメなのだけれども、ある子にとっては遊びなんです。だからなかなか問題が解決しない。いじめられた子の気持ちになるのではなくて、いじめられた子の気持ちと自分の気持との共有できる部分をどうにかしていく、そこから少しづつ解決の糸口を探っていく。時間はかかるけれども、このエンパシー型のほうが最終的な問題解決に近づいていけるのではないか。エンパシー型教育の趣旨です。
今、大学で共通した課題としてあるのは、3年次にインターンに出るころになって患者さんの気持ちが分からない、障害者の気持ちが分からない、とリタイヤしてしまう真面目な人が一定数いる。だが、ベテランの看護師さんは患者さんを大勢みている、その一人一人と同一化していたら仕事にならない。だから何か接点を見つけてコミュニケーションをとっているのです。完全に相手と同一化しなければコミュニケーション取れないなんてことになったら大変です。そうじゃなくて、いや分からないよ、人の気持ちなんて分からない、だからどうにかして共感できる部分をちょっとずつでも見つけて、相手とコミュニケーションをとっていきましょうということです。
「対話」というのはこの連続した講演会のテーマですが、ひとつだけ申します。会話と対話をきちんと区別することが大事と言われます。英語ではダイアローグとカンバセーション、明確な違いはあるのですが、日本語ではあんまり違いは意識されてきませんでした。私なりの定義は、会話は親しい人同士のおしゃべり、対話は知らない人との情報の交換、交換していくと価値観の違いを摺合せできる。
日本は島国で稲作文化、全体で田植えをして村全体で助け合って、同じような価値観、同じようなライフスタイルを持った人間同士のコミュニケーションにたけた文化を培ってきました。これを分かり合う、察しあう文化と言います。私たちは素晴らしい芸術を生み出してきました。たとえば俳句や短歌という世界で最も短い詩の形式です。「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」と言っただけでここにいるみなさんは斑鳩の里の夕暮れの風景をなんとなく思い浮かべる。これはすごい能力ですね。こういうものを言語学の世界ではハイコンテクストの社会という。だが、残念ながら世界に出ると私たちは少数派である。少数派を認識する必要がある、国際社会で生きていくなかで。そうじゃないと、日本人のへんなやつ、無口なくらいやつという扱いになる。少数派だからと言って卑屈になる必要もない。私たちがこれからやらなければいけないことは、この日本文化に根差しながら、それをどうやって異なる文化を持つ人に説明していけるか。こういう能力がこれから必要になる。そのために、この対話の能力が必要です。
ここで言語学の世界に冗長率という言葉があります。冗長率というのは、あるセンテンス、あるパラグラフの中で意味伝達と関係ない言葉がどれくらい入っているかという統計です。当然、会話が冗長率高くなると思われますが、意外と言語学的には冗長率は高くならないのです。いちばん冗長率低いのは長年連れ添った夫婦の会話。それから演説やスピーチも冗長率は低くなります。いちばん冗長率高くなるのは対話です。対話は異なる価値観のすり合わせなので時間がかかる。今まで私たちが受けてきた国語教育は冗長率を低くする方向で教えられてきました。きちんとしゃべる、無駄なことは言うな。書き言葉の教育ならこれでよかったのです。話し言葉はそうではないです。あの人は話がうまいなと思えるのは冗長率の低い人ではないのです。論理的にしゃべる人ではないのです。冗長率の切り替えがうまくできるかどうかがコミュニケーションのひとつの要素です。
最後に、僕は不登校の子と付き合うことがすごく多いんです。フリースクールで演劇を使っていただくことが多いのです。不登校の子っていうのはそれまでいい子だった子が多い。社会的にいい子だった。大体みな、いい子を演じるのに疲れたというんです。
大人はサラリーマンという自分、教員という自分、家に帰ったら夫という自分、親という自分、親と暮らしていれば子供という自分、マンションでの管理組合の役員の人、近所づきあい、趣味のフットサル、フォワードの自分、同窓会に出てきたら子供時代の自分の役割、いろんな社会的な役割りを演じながら、人生の時間を前へ前へ進めていく。そんなことみんなわかっているのに、子供には本当の自分を見つけなさいという。玉ねぎはどこからが皮でどこからが玉ねぎということはないわけです。皮の全体が玉ねぎを構成しています。人間もそんなもんです。こういうものを演劇や心理学の世界でペルソナといいます。仮面の意味を兼ね備えています。仮面の総体が人格を形成している。子供たちは仮面をかぶっている。昔は、学校での時間があって、無邪気に遊ぶ自分、甘えられる自分、しっかりしなけりゃいけない自分。こういうものを繰り返すことによって自分というものが形成されてきたのだと思う。今は学校の授業時間、部活、放課後、ずーっとラインでつながっていて、ひとつのキャラを演じ続けなければならない。これは疲れる。これをキャラ疲れという。これがひどくなると不登校や引きこもりになる。
要するに問題の本質は明らかです。演じるのが悪いのではなく、演じさせられてると感じた瞬間に仮面が重くなってしまう。だから僕は逆に、主体的に演じる人格を作っていくことが必要じゃないかと思います。私の友人で京大の総長をやってる山際寿一という人がいます。ゴリラの専門家です。ゴリラは親になると父親を演じるといいます。でも、妻に対する態度と子に対する態度が違うということはない。演じ分けることはしない。チンパンジーは群れ単位で行動する。ゴリラは家族単位で行動する、人間だけがその両方に所属する。人間だけが家族と群れという単位の両方に所属する。そのために私たちは演じ分けるという行為を生み出した。この能力が人間の複雑な社会を築く基盤になる。ですから演じ分けるという能力は人間を人間たらしめているもっとも重要な能力と考えられると思っていい。少なくとも教育の役割は、いい子を演じるのに疲れない子どもをつくる、できるならば、いい子を演じるのを楽しむぐらいのしたたかな、しなやかな子どもをつくる。それが今僕が取り組んでいる教育の目標です。私たちは常に現実の社会では、多様なさまざまな人々と関わりながら生きていかなくてはいけません。その時に最も重要な能力は、その時、その場に応じて、相手に応じてさまざまな人格を演じ分けて生きていく力をつける。そのことを演劇を通じてお伝えできればと思っております。 (文責 酒井忠昭)
2018年秋に、今年2回目の公開音楽療法が下北沢タウンホールで開かれました。
第一部は、鈴木秀太郎(ヴァイオリン)とセイダ・ルガ・鈴木(ピアノ)によるリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリンとピアノのためのソナタ3楽章全曲の演奏。ドビュッシーの小曲「小舟にのって」、スペイン舞曲、アンコールはタイスの瞑想曲でした。
それに続いて第2部では、日本音楽療法学会認定音楽療法士 丸山ひろ子さんによる音楽療法の一部を会場の参加者に体験してもらいました。「もみじ」「夕焼け小焼け」を合唱し、ベートーベンの「歓喜の歌」はボイストレーナーの北村恵美子さんの指導のもと、ドイツ語でも歌いました。